自分が所属するベンチャー企業に限らず、
小さな会社の採用は縁故採用が見られることが多い。
それは社内メンバーの昔からの友人だったり、前職の同僚だったりする。
全く素性も知らない相手より、人となりを知っている人間の方が安心して会社に推薦できる。そんな心理的な事情が大きいのだろう。
良い人間と認識している相手であれば尚更だろう。
親しみのある人間となれば、快く人事担当や上長に推薦してしまったりする。
だけど、社会人生活が6年目に突入した今の個人的視点からすれば、
少なくとも友人と仕事をするのは得策でないと感じている。
大きな理由としては、仕事だと互いの利害を強く意識してしまうからだ。
自分の信条としては、そもそも友人とは何の意味を求めずとも時間を共有できる人間だと感じている。
シンプルに楽しいから、生きる世界は違えど共感できるから、
無意味なことでひたすら笑いを共有できるから。
理由はさまざまだろうが、お互いの間に明確な利害を含まない関係のはずだと。
しかし職場での同僚となると、どうだろう?
友人と同じ関係で時間を共有できるだろうか。
たしかに職場でも冗談を言い合ったり、趣味の話ができる仲はいる。
だけど、筆者個人の感覚としては、友人と思える職場の人間は一人もいない。
そうなってしまう原因を考察してみると、
職場の人間どうしでは利害関係が嫌でも発生してしまうからだと考えた。
それは会社の利益かもしれないし、出世かもしれないし、進捗・納期かもしれないし、
新しい商品や技術を開発した実績かもしれない。
職場空間では、良くも悪くも全員が個々人の立場に応じた利害を前提に
時間を過ごしているから、メンバーどうしも良くも悪くも利用し合う関係になる。
つまり、共有する時間に何かしら意味を求めてしまうのだ。
この点は筆者の友人観とは対局的な要素だ。
自分にも数年前までは「いつか共に仕事がしたい」と思える友人がいた。
ビジョナリーに生きてる部分も似ているし、
たまに会って食事をしている時も今後やりたいことを語り合える存在だ。
何の薬にもならない下らない話をしても素直に盛り上がる。
でも、様々な人間関係を目の当たりにしたいま、
自ら率先して彼と仕事をしたいとは考えなくなった。
本当の意味で心地いい関係を維持するには、いまの「ただの友人」で
あることが最善なのだろうと。
自分は決して友人が多い人間でもないのもあり、その少ない友人を失う方が怖い。
もしも友人としていつまでも良好な関係で仕事できるのであれば、
幼馴染どうしで結成されたバンドが解散することも、
同級生どうしで共同代表で立ち上げた某医療系ベンチャー内で社内政治が発生することもないはずだ(自分の会社のことではない)。
もしそれでも縁故採用を活用するのであれば、
あくまでも仕事上の利害関係のなかで時間を共にしてきた人間の方が良いだろう。
過去に友人としてでなく、かつて利害が一致したうえで時間を共有したことのある、
信頼のおける人間であれば十分に検討の余地はあるだろう。
以上、理屈たてて書いたものの、本心では友人と遊ぶように仕事できたらと思う自分がいることも確かだ。
たぶん、何かしらの仕事観に束縛されているのかもしれない。
まだ精神的な開放からはほど遠い。