培養X年目の与太話

培養、与太話

細胞培養と与太話で生きてます。

『フォルカスの倫理的な死』をいまいちど読む 2023年

                         

 

読んだ本をしばらく寝かせておいて数年越しに読んでみると

以前と全く違う解釈ができたりする。

 

 

最初に『フォルカスの倫理的な死』を読んだのは2017年だった。

培養肉を筆頭にまだ見ぬテクノロジーが普及した時代を背景に、

飼い猫を亡くした主人公の葛藤を描く。

技術と倫理の関係を考えさせられた短編小説

kakuyomu.jp

 

 

2017年といえば個人での細胞培養を普及させるための市民団体Shojinmeat Projectに参加し始めた頃だった。

当時の自分はこの短編小説を「あるかもしれない培養肉が実装された未来」の一例や

科学コミュニケーションの一例として認識していてその魅力に引き込まれた。

それと同時に、ある種のデトックス剤としても機能した。

培養肉のコンセプトが世間的に認知されてからというもの、

未来の地球を救うかもしれない技術として多くのメディアが盛んに培養肉を発信した。

2017年にShojinmeatでの活動やインテグリカルチャーも例外ではなく、

メディア系の人間からの話も多く来ていたと記憶している。

でもそれは、自分の中ではどこか気味の悪い状況でもあった。

革新的な技術があればもっと住みやすい世界を作れる、多くの問題が解決できる。

多くのメディアがそんな情報を発信していたけど、

本当にそれがテクノロジーに対する十分な姿勢なのか?

本当に技術さえあれば世間が良くなっていくのか?

技術の最前線にいるであろう自分ができることは何か?なんて悶々としていた。

 

そんな時に読んだ『フォルカスの倫理的な死』はいま一度、

世間における技術の役割を冷静に見つめてみる良い材料になった。

単に技術の良い側面を見るだけでなく、負の部分にも向き合ったうえでどう行動するか重要さを感じる小説だった。

それからというもの、少しずつ自分の行動原理や価値基準を意識するようになる。

 

当時は少ない語彙力や表現力でしか語れなかった同作品だけど、

最初に読んでから5年経った今なら、もう少し腹落ちできる言葉で魅力を紹介できるのではと考えて焼き回しのような形で記事にした。

それと同時に、自分の今後の活動や仕事においての考え方の軸を改めて表明しておこうと思う。

新年に相応しい記事になるだろうか?

 

2017年に書いた記事

sciencecontents.hatenablog.com

 

あらすじ

今よりもずっとテクノロジーが進んだ未来

従来の動物を殺して肉を食べる風習は廃れ、培養肉にすり替わっていた。

動物に対する倫理観が大きく変わった世の中では動物に家畜肉を使ったペットフードを与えることすら悪になった。

変わったのは人々の肉食文化だけでない。

 

それもこれもテクノロジーが進み、それを追いかけてビジネスが発展し、

やがてはサービスが普及することで大衆の倫理観が変わったからだ。

 

そんな時代、主人公である「わたし」は飼い猫の安楽死を選んだことをきっかけに

違法とされる旧来の肉を食べることを決意する。

 

 

解説

作品内ではいま世界に普及しているものを善、過去のものが悪として扱われている。

  • 家畜を殺して肉を食べる
  • 樹木を伐採して紙を製造する
  • タバコを吸う
  • いかがわしい表現のコンテンツを観る
  • カフェインを含む飲料を飲む
  • 毛皮のコートを身に纏う

特に今作の重要な要素となる肉については軽犯罪と扱われている。

技術で置き換わるだけでなく、倫理的にアウトと認識される。

技術の社会実装を後押しするのはビジネスであり、ビジネスによってサービスが浸透した先にあるのは新しい倫理観や価値観の浸透である。

しかし倫理観や価値観の変化は、旧来の価値観を排他する可能性を秘めている。

それによって影響を受ける人物や動物はお構い無しに、

世間の倫理はより強固なものになっていく。

作品内ではペット達がその影響を受けた最たる例になっていた。

家畜の肉を食べることを許されず、多くの動物もが培養肉を食べることを強いられた。

順応した動物は生き残り、拒絶した動物は死ぬことになった。

 

しかし動物を殺さないことが正義でありながら、それの実現によって多くの動物が苦しむことになるのは奇妙な話だ。

そこに矛盾があるにも関わらず、いつの間にか社会に深く根を張った倫理はその矛盾すらも違和感を無くしてしまう。

 

「わたし」は培養肉を拒絶して痩せ細った飼い猫「フォルカス」を見て、安楽死をさせることを選んだ。

ガス装置の中で動かなくなり眠るように息絶えるフォルカスを眺めながら、そうするしか無いと分かっていながらも彼女は複雑な心境だったに違いない。

その後、彼女のパートナーがフォルカスそのものの猫型ロボットを購入する。

どう見てもフォルカスそのものであるにも関わらず、同じものとして見れないわたしはパートナーとの関係を終わらせるに至る。

本作品は最後に、部屋の中でロボットのフォルカスがバッテリー切れになるところをわたしが想像するところで終わる。

これは安楽死した時の様子と重ねているように読み取れる。

題名には『フォルカスの倫理的な死』とあるが、それが本当に倫理的であったのかは明確でない。

たとえそれが世間からみて最も倫理に適った選択だったとしても、

フォルカスは倫理の被害者であることに変わりはない。

そして最後にブログ主には読み取れなかったのだが、

なぜ「わたし」は違法になった家畜の肉を食べる決断をしたのか?

飼い猫の安楽死を選んで息を引き取る瞬間を目の当たりにした「わたし」だからこそ、そういう決断に至ったのかもしれない。

自らの意思で生命を絶つという意味では、畜産肉を食べるのも通ずる部分がある。

 

 

技術の社会実装の最適解はあるのか?

技術が実装されて現在無い価値観を受容する人間が現れれば、

その価値観に矛盾する人間が出ることになる。

それまでは正しいとか正しくないとかそういうことではなく、

ただ今までそうしてきたから、という意味であったとしてもだ。

でも多くの場合、矛盾の無い技術は存在しないのかもしれない。

実装されれば少なからず淘汰される技術、習慣、価値観がある。

今現在まさに議論の真っ最中になっているのが、

作品の中にも登場する食肉のための畜産動物屠殺の是非だ。

過去何千年にも渡って人類はそうしてきたし、

各国の事情によって様々だが、少なくともそれを完全悪とする国を私は知らない。

しかし技術が少しずつでも進歩していくに従い、

倫理の問題は確実に熱を帯びていっている。

 

食や倫理観についての議論は多かれ少なかれ多様性の切り口で議論される場合も多い。

厄介なことに、特定の倫理観をもつ人間が相反する人間を叩いたりする場面も見受けられる。

しかし、多様性とは他者の権利を侵害しないことが大前提のはずだ。

技術革新である倫理観の人間にとって住みやすい環境になったとしても、

これまでの倫理観を生きてきた人間にも等しく権利が維持される方が正しいはずだ。

なぜならお互いに権利を侵害しあうことが無ければ、生きていく上で本質的に問題は無いのだから。

 

そして仮に新たな倫理観がその世界での倫理に形式的に置き換わったとしても、

それが本当に倫理足り得ることなのかを疑問視し続けたい。

常識は必ずしも正義ではないし、正義が必ずしも最適解ではない。

何か望む自分の心と相反するものが所謂世間の倫理であった時、

必ず従わなければならないのか?

そして技術とビジネスが寧ろ人々の意思決定を妨げないか?

 

そして最後に、当然のことなのだが、

培養肉そのものも長い年月を経て倫理が変わることで悪と認識される可能性すらある。

誰がそれをやってのけるかは分からないが、その可能性を忘れてはならない。

 

この手の話は一部のコアなメディアでも取り上げられているから何番煎じかは分からないけど、自分の立場で考え続けることが大事だと感じた。

こんな具合で今年も与太話を繰り返しながら、

ディープテックベンチャーの一員として過ごしていこうと思う。

 

 

その他、個人的に推せるレビュー

kakuyomu.jp