培養 X年目の無駄話

細胞培養してます。テクノロジー関連、日々気になった事をアレコレ書きます。

憧れって時に呪い

社会人3年目になると、学生時代から価値観の変化に驚くことがある。

ある側面では弱くなったし、ある意味では強かになったのかも。

できれば、この変化が自分にとってプラスになるように。

  

 

つい先日、こんなことをツイートした。

 

 

 

これは社会人になってから3年間の体験を元に書いた。

自戒の意味も込め、なぜそう思うようになったかの背景を書き出す。

 

 

自己の軸はどこだっけ?

大学高校問わず教育の話題に目をやれば、『これからのリーダーを教育する』みたいなキャッチフレーズが多い。

背景としては環境問題や高齢化、貧困など社会課題があり、それを解決するには旗振り役となる人間が必要になる。だからリーダーが必要だ、らしい。

まあ、理にはかなっている。

 

ただ、個人的な信条を述べるならば、リーダーになる部分を強調されたスローガンを持ってこられると「オイオイ、コイツら大丈夫かよ?」と思ってしまう。

リーダーになることが働く目的になってる場合も多いからだ。

そういう人間にとって、課題解決なんて二の次で、自らのキャリアアップ、社会的ステータスを確保するためリーダーになる、が先行する。例えば、マネージメントできると、収入が約束されるぞ!とか。

学生時代の自分も同じだったから、今となっては恥ずかしい限りで、同じような勘違いは二度と起こすまいと思っている。

というのも、自分にとって働くために本当に重要な要素は、ロジカルな考え方でも、人脈でも、声のデカさでもなく、「自己の成長軸を何とするか」だと気付いたからだ。

 

自分は何が得意で、何に問題意識を持つ人間なのか?が不明な状態で「リーダー目指そう」は呪いにしかならない。

リーダーと聞くと、どうしても様々な能力に秀でたハイスペック人間を想像しがちだが、本当に優秀なリーダーは自らがある部分で有能であることも、反対に、ある点では無能であることを理解している。

だからこそ、自分の短所を補ってくれる人間を近くに配置して、敬意をもって仕事を任せる。だから、個人の裁量で適切に仕事が進んでいく。

業務が円滑に進むために善処することが仕事の原理原則であるなら、尚更だ。

 

 

憧れは時に呪いになる

職場しかり、学校しかり、それなりの規模の組織に所属していると、自分にとっての憧れの対象がいたりする。それはプロジェクトリーダーとして高い成果を上げる年上かもしれないし、趣味の分野で特殊スキルを持つ同僚とか。

憧れは仕事の動機にもなるのだが、それに依存し過ぎると痛い目にあうこともある。

そもそも、なぜ他人が自分の憧れ対象になるかといえば、その人間が自分には欠けている部分を満たしているからだろう。

彼(彼女)を目指したいと思ったとしても、大抵の場合それは叶わない。

なぜなら、憧れ対象が憧れたらしめる背景には、自分とは全く異なる人生のバックグラウンドが存在するからだ。

もしかすると、その人は幼少期からある能力を磨き続けてきたのかもしれない。

積み上げてきたものの差は、いつまで経っても完全に埋まることはない。

彼(彼女)もスキルアップをし続ける。

それよりも、その人と違う特性の部分で勝負したほうが圧倒的に良い。

だからこそ、自分の軸や特性は理解した方が良い。

テクノロジーの社会実装の前提にあるもの

前に不老不死技術に触れた話を書いた。

技術がそこにあれど、結局それの行使を選択するか否かは

個人の信条により選択されるらしい。

 

sciencecontents.hatenablog.com

 

そんなことをツイッターでつぶやいた時、

あるフォロワーさんから気になる意見を頂いた。

 

科学やテクノロジーが個人の属性に応じ

「届きやすい個人」と「届きにくい個人」に分かれる社会構造があるとき、

その選択を個人の信条に帰責するのは社会問題の温存もしくは助長、

と言われてしまう時代になっていると。

その社会構造の一例に貧困があり、特に海外ではその構造が顕著らしい。

貧困層が多いある農村部では、農業を営む人々へ

農耕技術(化学肥料、品種改良)が普及していない場合がある。

すると、国全体での農作物の生産量は低いままであるため、

貧困層の性格水準からみれば割高な輸入品に頼ることになる。

ここまでをまとめると、高インフラにより生活水準が下がると

技術へのアクセスが容易でなくなる、ということになる。

 

一方で、貧困層の人々は収入を求めて都市部での出稼ぎを余儀なくされる。

都市部には高インフラの恩恵を受ける人々が住んでいる。

言い換えれば、都市部のインフラは貧困層に支えられる構造になっており、

貧困層の生活環境の悪化を助長する原因になっている。

 

この意見は私に新しい目線を与えてくれた。

つまり、新技術の社会実装が公益につながるのか、だ。

 

社会実装を目指すにあたり重要なのは、ビジネス的都合との均衡だ。

不確定要素の多い技術を確かなものにしていくには、

当然相応のコストが掛かるかわ、

コストを何かしらの形で回収する仕組みが必要だ。

開発系ベンチャーの場合、それは事業・ビジネスになる。

 

ビジネスとして開発物を世に出す以上、それなりの額を人様から頂くことになる。

企業かもしれないし、個人かもしれない。

加えて、新技術である以上、しばらくは値も張ることも確かだ。

しかし、いつまでも高額なものではインフラ技術として成立しないので、

低コスト化は長期的な課題になる。

 

ただ、この低コスト化が実現できたとしても、その背景が重要になる。

一方で、低コスト化の実現が、低賃金な労働力で支えられるとすると、

社会を俯瞰した時に本当に世の中を良くなったのか?は

議論が分かれるだろう。

でも、ビジネスとしてやる以上、どこかで割り切る姿勢を求められるだろう。

 

 

資本主義を前提に研究開発をすることの弊害だろうか。

この不均衡にも見える状態を打破する要素は何だろうか?

これは個人で考えるには余りにも複雑な問題だ。

 

最後にフォロワーさんからの有り難い言葉で締める。

いい言葉だったので、そのままコピペする。

 

特にロングショットの研究開発の場合、マジョリティの一定割合に選ばれるという

ビジネス目標だけでなく、現在のマイノリティがそうならなくなる、

社会に向けた長期のゴールを発信できる開発研究者が信用されていく気がします。

 

死生観も色々

 

多種多様な文脈で、死生観が提示されている。

どれが悪いとかではなく、どれも良い。

ただ、何を基準に選べば良いのか?

 

つい先日、数カ月ぶりに実家に戻った。

母親と雑談をしたいた時、祖父の話になった。

母親いわく

「おじいちゃんがもう80後半だから、

亡くなった時のことを色々考えておきたいの。」

祖父はまだ元気だし、趣味の競馬にも余念が無い。

正直、そこらの若者よりも頭が切れるかもしれない。

だとしても、もう80後半。

頭が冴えているうちに、死ぬまでのこと、

死んだ後のことを色々と整理しておきたいと。

 

祖父はこれまで、死に対して後ろ向きだった。

80年以上生きても、やはり死ぬのは怖いらしい。

そんな彼が母親の説得もあり、

今一度、彼は自身の最期に向けて思索し始めたようだ。

 

そんな話を聞いた後に、

Wired ウェブメディアで読んだ記事を思いだした。

死んだ後に意識を電脳世界に移し、

永遠に生き続ける構想があるらしい。

具体的には、生きている間に脳と機械を一体化させることで、

記憶や意識が永遠に存在し続ける。

死を「本人に意識があること」で定義する場合、

それは事実上の不老不死を意味する。

 

wired.jp

project.nikkeibp.co.jp

 

今風に言えば、『死をハックする』だろうか?

この手の革新的な技術構想には疑問が生じる。

倫理的、法的にどうなんだ?の話ではない。

一番の疑問は、仮にそれが技術的に実現できたとして、

私を含めた一般人は、何を基準に技術の使用を選択するのか?

この場合、

「何をもってデジタル空間での不老不死を選択するか?」

だろう。

 

『終活』が認知されるようになり、

死に対する姿勢が問われることも増えた。

終活とは言い換えれば、死ぬことへの準備なわけだから

自分の死を受け入れる姿勢が前提にある。

一方で、意識のデジタル化は死への姿勢以前に、

死そのものから逃れる方法だ。

これらの間には決定的な違いがある。

つまり、

死を前向きに受け入れるか、

後ろ向きに拒絶するか?の違いだ。

 

どちらが良いとか、悪いのではなく、

 

個人の信条に沿って選択されれば良い問題だ。

でも、だからこそ、自分で判断する以外に無い。

その時、私達は何を判断基準に選択するのだろう?

 

死を後ろ向きに捉えるのは分かりやすい。

基本的に人間は、自らから死を遠ざけようとする。

医療はそのためにあるし、死に体して後ろ向きだった

私の祖父の気持ちも理解できる。

続けたい趣味もあるだろうし、他人から忘れられていくのが怖いだろう。

そういう人たちが、意識だけが肉体が滅ぶ以前と

同様に存在し続ける選択をするのは納得だ。

 

では、死に体して前向きな捉え方なんてあるんだろうか?

私が知る限り、前向きな死の捉え方を提示しているのは

ヨシタケ シンスケさんの「このあと どうしちゃおう」がある。

人間は必ずいつか死ぬ、という大前提で

テーマが新しい死との向き合い方なわけだから

字面だけ見ると、児童対象の読み聞かせ本としては少々重い内容にも思える。

しかし、実際に読んでみると良い意味で裏切られた。

 

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【ストーリー】

主人公「僕」の祖父が亡くなったその後を描いている。

彼が祖父の遺品整理をしていると、

「このあと どうしちゃおう」と書いてあるノートを見つける。

そこには

「天国はきっと、こんな楽しい場所」

「こんな楽しい神様と話をしてみたい」

「ネコに生まれ変わりたい」

「こんな楽しい見た目のお墓をつくって欲しい」

といった祖父自身が死んで天国に移住した後に

してみたいこと、家族にして欲しいこと、

望む死後の生き方が書き溜められていた。

悲しいというよりも、

死後を楽しみにするかのような内容だった。

 

それでも「僕」は、

祖父が死への恐怖や寂しさが入り交じる中、

自分の死と向き合っていたのではと考える。

 

やがて、「僕」は自分も死んだ後、生きている間について

「どうしちゃおう」と考え始める。

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死をテーマにしつつも、

柔らかいタッチのイラスト、

ユーモアのある発想で死を表現している。

 

誰もが死を怖いものとして構えてしまうなかで、

死を前向きに、かつフラットに見つめている。

 

平等に分け与えられた死に対し、誰でも恐怖心は消えない。

だからこそ、恐怖心は死を前向きに捉えるための

エネルギー源でもあるとも読める。

 

そして、この本は死後があるからこそ、

その対極にある生きている間にどう生きるのか、と投げかける。

この絵本で描かれている死後の生き方は

生前と死後を明確に区別している。

死後の世界のことなど今は想像しかできないのだから、

今をどう生きていくかと問いている。

 

来る死を認めつつ、死んだ後を前向きに捉える姿勢

死を回避するために、永遠の命を得ることを目指す姿勢

両者の姿勢は明らかに違うけど、永遠の命には変わりない。

どちらの選択肢も尊重されるべきだと思う。

もしかしたら今の私達には認知できない

不老不死の悦びあるのかもしれないし。

 

 

漠然としているが、

これからは今以上に死をテーマに扱う機会が増えそうだ。

 

www.amazon.co.jp

 

 

 

 

 

やや話題は逸れるが、前向きな死生観という意味では

藤井風の『帰ろう』にも通ずるかもしれない。

www.youtube.com