培養X年目の与太話

培養、与太話

細胞培養と与太話で生きてます。

乗り越えた経験は何かある?

ものすごい曖昧な話。

「仕事で乗り越えた経験は何かある?」

そんな話題を振られたことがある。

虚を突かれた感じになって曖昧な返答しかできなかったのだが、

敢えて言語化してみようと思う。

 

恥ずかしながら、キャリアアップを話題にするネット記事のように、

「社運を賭けたプロジェクトを苦労しながら成功に導きました」とか

「営業で成約を〇〇件とってきました」とか

「入社数年で企画したプロダクトがローンチされました」

といった分かりやすい実績の覚えが無い。

正確にいえば、似た経験は少なからずあるものの、

その体験よりも遥かに強烈な自己変化があったというべきだろう。

印象が強過ぎて過去の仕事の失敗や成功があまり印象に残らない。

 

その大きな自己変化は一言でいえば

「外部からのネガティブな刺激に強く反応しなくなった精神変化」だろう。

ここでの刺激とは主に仕事をしていて起きることが多い。

人間関係、ハレーション、プロジェクトの阻害要因、メンバーが辞めていったり

仕事をしていれば想定できる刺激の種類が数多くある。

4年くらい前まで、それら一つ一つのネガティブな刺激に対して反応してしまう自分がいた。

なにか起きる度に仕事に集中できなくなったりしていた。

 

そんななか、自己変化が生じた。

きっかけとしては4年ほど前に適応障害に陥ったことが影響している。

当時、諸事情で何もかも上手くいかなかった自分は、

自分でも気付かぬうちに大きな精神的なダメージを負っていた。

比較的短期間で済んだものの、仕事から離れる期間があった。

なぜ自分が仕事に復帰できたのかは定かではないのだが、

復帰後の半年くらいの期間は作業コストの大きいプロジェクトからは距離を置き、

小さくとも、会社の進歩に貢献できる開発テーマを中心に仕事をした。

自分が空けた空白を埋めるために別のメンバーが苦労するハメになったが、

そういった対応をしてくれた環境には感謝している。

 

そんな風に過ごしていた期間に、それまでの自分には無かった視点が芽生えた。

一言でいえば、身の回りの出来事を俯瞰して客観的な判断ができるようになった。

ある意味で悟りかもしれない。

例えば、かつて社内にいたネガティブな人間の振る舞いに対しては

人間的な振る舞いというよりも動物的な振る舞いとして眺めるようになったし、

最終的に人間も所詮畜生とまで考えるようにもなった。

子供のころに小学校の飼育小屋に入り浸って鶏を眺めていた経験が活きたのだろうか。

周囲で起きるアレコレを落ち着いて観察し、

自分と関係あると思えば対処法を考える、取るに足らないものと思えば我関せず。

そういった良い意味での取捨選択の発想が育っていった。

人間が集まれば他人のネガティブな噂話で盛り上がったり、

プロジェクトの進行に後ろ向きな態度が見えてきたり、いろいろある。

でもそれらの全てに反応できるほど人間の精神キャパは広くない。

どこかで冷徹さを獲得しないと持続的に動けないのだろう。

 

こういう乗り越える系の話になると頻繁に出くわす締めくくりは

「だから他の人にも同じような体験をして成長して欲しい」なのだけど、

個人としては死んでもお勧めしたくない。

たしかに良い面はあった。

状況の視え方は変わったし、過度に心かき乱されることも格段に減った。

周囲からも年齢の割には落ち着いているとか、

マネージャー的な視点があるとか評価を貰うことがある。

とはいえ、こういった経験や過程はあくまでも結果的に起きるものであって、

意図して引き起こしたりするものでは、決して無い。

下手をしたら本当の意味で精神的に崩壊して

社会活動からフェードアウトした可能性だってあったはずだ。

とはいえ、結果的にいまの精神性になった事実がある以上、

過去の経験には感謝する他無い。

 

ベテランと言われる人々も、少なからず似たような経験があるのでは???

友人と一緒に仕事はしたくないって話

自分が所属するベンチャー企業に限らず、

小さな会社の採用は縁故採用が見られることが多い。

それは社内メンバーの昔からの友人だったり、前職の同僚だったりする。

 

全く素性も知らない相手より、人となりを知っている人間の方が安心して会社に推薦できる。そんな心理的な事情が大きいのだろう。

良い人間と認識している相手であれば尚更だろう。

親しみのある人間となれば、快く人事担当や上長に推薦してしまったりする。

 

だけど、社会人生活が6年目に突入した今の個人的視点からすれば、

少なくとも友人と仕事をするのは得策でないと感じている。

大きな理由としては、仕事だと互いの利害を強く意識してしまうからだ。

 

自分の信条としては、そもそも友人とは何の意味を求めずとも時間を共有できる人間だと感じている。

シンプルに楽しいから、生きる世界は違えど共感できるから、

無意味なことでひたすら笑いを共有できるから。

理由はさまざまだろうが、お互いの間に明確な利害を含まない関係のはずだと。

 

しかし職場での同僚となると、どうだろう?

友人と同じ関係で時間を共有できるだろうか。

たしかに職場でも冗談を言い合ったり、趣味の話ができる仲はいる。

だけど、筆者個人の感覚としては、友人と思える職場の人間は一人もいない。

そうなってしまう原因を考察してみると、

職場の人間どうしでは利害関係が嫌でも発生してしまうからだと考えた。

それは会社の利益かもしれないし、出世かもしれないし、進捗・納期かもしれないし、

新しい商品や技術を開発した実績かもしれない。

職場空間では、良くも悪くも全員が個々人の立場に応じた利害を前提に

時間を過ごしているから、メンバーどうしも良くも悪くも利用し合う関係になる。

つまり、共有する時間に何かしら意味を求めてしまうのだ。

この点は筆者の友人観とは対局的な要素だ。

 

自分にも数年前までは「いつか共に仕事がしたい」と思える友人がいた。

ビジョナリーに生きてる部分も似ているし、

たまに会って食事をしている時も今後やりたいことを語り合える存在だ。

何の薬にもならない下らない話をしても素直に盛り上がる。

でも、様々な人間関係を目の当たりにしたいま、

自ら率先して彼と仕事をしたいとは考えなくなった。

本当の意味で心地いい関係を維持するには、いまの「ただの友人」で

あることが最善なのだろうと。

自分は決して友人が多い人間でもないのもあり、その少ない友人を失う方が怖い。

 

もしも友人としていつまでも良好な関係で仕事できるのであれば、

幼馴染どうしで結成されたバンドが解散することも、

同級生どうしで共同代表で立ち上げた某医療系ベンチャー内で社内政治が発生することもないはずだ(自分の会社のことではない)。

 

もしそれでも縁故採用を活用するのであれば、

あくまでも仕事上の利害関係のなかで時間を共にしてきた人間の方が良いだろう。

過去に友人としてでなく、かつて利害が一致したうえで時間を共有したことのある、

信頼のおける人間であれば十分に検討の余地はあるだろう。

 

以上、理屈たてて書いたものの、本心では友人と遊ぶように仕事できたらと思う自分がいることも確かだ。

たぶん、何かしらの仕事観に束縛されているのかもしれない。

まだ精神的な開放からはほど遠い。

『フォルカスの倫理的な死』をいまいちど読む 2023年

                         

 

読んだ本をしばらく寝かせておいて数年越しに読んでみると

以前と全く違う解釈ができたりする。

 

 

最初に『フォルカスの倫理的な死』を読んだのは2017年だった。

培養肉を筆頭にまだ見ぬテクノロジーが普及した時代を背景に、

飼い猫を亡くした主人公の葛藤を描く。

技術と倫理の関係を考えさせられた短編小説

kakuyomu.jp

 

 

2017年といえば個人での細胞培養を普及させるための市民団体Shojinmeat Projectに参加し始めた頃だった。

当時の自分はこの短編小説を「あるかもしれない培養肉が実装された未来」の一例や

科学コミュニケーションの一例として認識していてその魅力に引き込まれた。

それと同時に、ある種のデトックス剤としても機能した。

培養肉のコンセプトが世間的に認知されてからというもの、

未来の地球を救うかもしれない技術として多くのメディアが盛んに培養肉を発信した。

2017年にShojinmeatでの活動やインテグリカルチャーも例外ではなく、

メディア系の人間からの話も多く来ていたと記憶している。

でもそれは、自分の中ではどこか気味の悪い状況でもあった。

革新的な技術があればもっと住みやすい世界を作れる、多くの問題が解決できる。

多くのメディアがそんな情報を発信していたけど、

本当にそれがテクノロジーに対する十分な姿勢なのか?

本当に技術さえあれば世間が良くなっていくのか?

技術の最前線にいるであろう自分ができることは何か?なんて悶々としていた。

 

そんな時に読んだ『フォルカスの倫理的な死』はいま一度、

世間における技術の役割を冷静に見つめてみる良い材料になった。

単に技術の良い側面を見るだけでなく、負の部分にも向き合ったうえでどう行動するか重要さを感じる小説だった。

それからというもの、少しずつ自分の行動原理や価値基準を意識するようになる。

 

当時は少ない語彙力や表現力でしか語れなかった同作品だけど、

最初に読んでから5年経った今なら、もう少し腹落ちできる言葉で魅力を紹介できるのではと考えて焼き回しのような形で記事にした。

それと同時に、自分の今後の活動や仕事においての考え方の軸を改めて表明しておこうと思う。

新年に相応しい記事になるだろうか?

 

2017年に書いた記事

sciencecontents.hatenablog.com

 

あらすじ

今よりもずっとテクノロジーが進んだ未来

従来の動物を殺して肉を食べる風習は廃れ、培養肉にすり替わっていた。

動物に対する倫理観が大きく変わった世の中では動物に家畜肉を使ったペットフードを与えることすら悪になった。

変わったのは人々の肉食文化だけでない。

 

それもこれもテクノロジーが進み、それを追いかけてビジネスが発展し、

やがてはサービスが普及することで大衆の倫理観が変わったからだ。

 

そんな時代、主人公である「わたし」は飼い猫の安楽死を選んだことをきっかけに

違法とされる旧来の肉を食べることを決意する。

 

 

解説

作品内ではいま世界に普及しているものを善、過去のものが悪として扱われている。

  • 家畜を殺して肉を食べる
  • 樹木を伐採して紙を製造する
  • タバコを吸う
  • いかがわしい表現のコンテンツを観る
  • カフェインを含む飲料を飲む
  • 毛皮のコートを身に纏う

特に今作の重要な要素となる肉については軽犯罪と扱われている。

技術で置き換わるだけでなく、倫理的にアウトと認識される。

技術の社会実装を後押しするのはビジネスであり、ビジネスによってサービスが浸透した先にあるのは新しい倫理観や価値観の浸透である。

しかし倫理観や価値観の変化は、旧来の価値観を排他する可能性を秘めている。

それによって影響を受ける人物や動物はお構い無しに、

世間の倫理はより強固なものになっていく。

作品内ではペット達がその影響を受けた最たる例になっていた。

家畜の肉を食べることを許されず、多くの動物もが培養肉を食べることを強いられた。

順応した動物は生き残り、拒絶した動物は死ぬことになった。

 

しかし動物を殺さないことが正義でありながら、それの実現によって多くの動物が苦しむことになるのは奇妙な話だ。

そこに矛盾があるにも関わらず、いつの間にか社会に深く根を張った倫理はその矛盾すらも違和感を無くしてしまう。

 

「わたし」は培養肉を拒絶して痩せ細った飼い猫「フォルカス」を見て、安楽死をさせることを選んだ。

ガス装置の中で動かなくなり眠るように息絶えるフォルカスを眺めながら、そうするしか無いと分かっていながらも彼女は複雑な心境だったに違いない。

その後、彼女のパートナーがフォルカスそのものの猫型ロボットを購入する。

どう見てもフォルカスそのものであるにも関わらず、同じものとして見れないわたしはパートナーとの関係を終わらせるに至る。

本作品は最後に、部屋の中でロボットのフォルカスがバッテリー切れになるところをわたしが想像するところで終わる。

これは安楽死した時の様子と重ねているように読み取れる。

題名には『フォルカスの倫理的な死』とあるが、それが本当に倫理的であったのかは明確でない。

たとえそれが世間からみて最も倫理に適った選択だったとしても、

フォルカスは倫理の被害者であることに変わりはない。

そして最後にブログ主には読み取れなかったのだが、

なぜ「わたし」は違法になった家畜の肉を食べる決断をしたのか?

飼い猫の安楽死を選んで息を引き取る瞬間を目の当たりにした「わたし」だからこそ、そういう決断に至ったのかもしれない。

自らの意思で生命を絶つという意味では、畜産肉を食べるのも通ずる部分がある。

 

 

技術の社会実装の最適解はあるのか?

技術が実装されて現在無い価値観を受容する人間が現れれば、

その価値観に矛盾する人間が出ることになる。

それまでは正しいとか正しくないとかそういうことではなく、

ただ今までそうしてきたから、という意味であったとしてもだ。

でも多くの場合、矛盾の無い技術は存在しないのかもしれない。

実装されれば少なからず淘汰される技術、習慣、価値観がある。

今現在まさに議論の真っ最中になっているのが、

作品の中にも登場する食肉のための畜産動物屠殺の是非だ。

過去何千年にも渡って人類はそうしてきたし、

各国の事情によって様々だが、少なくともそれを完全悪とする国を私は知らない。

しかし技術が少しずつでも進歩していくに従い、

倫理の問題は確実に熱を帯びていっている。

 

食や倫理観についての議論は多かれ少なかれ多様性の切り口で議論される場合も多い。

厄介なことに、特定の倫理観をもつ人間が相反する人間を叩いたりする場面も見受けられる。

しかし、多様性とは他者の権利を侵害しないことが大前提のはずだ。

技術革新である倫理観の人間にとって住みやすい環境になったとしても、

これまでの倫理観を生きてきた人間にも等しく権利が維持される方が正しいはずだ。

なぜならお互いに権利を侵害しあうことが無ければ、生きていく上で本質的に問題は無いのだから。

 

そして仮に新たな倫理観がその世界での倫理に形式的に置き換わったとしても、

それが本当に倫理足り得ることなのかを疑問視し続けたい。

常識は必ずしも正義ではないし、正義が必ずしも最適解ではない。

何か望む自分の心と相反するものが所謂世間の倫理であった時、

必ず従わなければならないのか?

そして技術とビジネスが寧ろ人々の意思決定を妨げないか?

 

そして最後に、当然のことなのだが、

培養肉そのものも長い年月を経て倫理が変わることで悪と認識される可能性すらある。

誰がそれをやってのけるかは分からないが、その可能性を忘れてはならない。

 

この手の話は一部のコアなメディアでも取り上げられているから何番煎じかは分からないけど、自分の立場で考え続けることが大事だと感じた。

こんな具合で今年も与太話を繰り返しながら、

ディープテックベンチャーの一員として過ごしていこうと思う。

 

 

その他、個人的に推せるレビュー

kakuyomu.jp

たぶんそういう生存戦略

去年末に久々に帰省したんです。

年末はイベントやら仕事やらで忙しく動き回ることになるんで、

正月はひたすらのんびり過ごしたりしてました。

正月に家族が集まれば、面倒だけど雑煮くらい作るかなんて話になる。

ですが、何なんですかね?

ウチの雑煮はやたらと具が少ない。

             

                我が家の雑煮

 

雑煮ってアレコレ具が入ってるから雑煮って言うはずなのに、

いつも八頭(やつがしら)と焼いた餅だけなんです。

もっとこんな、鶏肉とか葉物とか人参とか入ってるのが雑煮のイメージのはず。

          

                  雑煮概念

 

今どきコレほど質素な雑煮にナカナカ出くわさないのでは?

日本一質素なんて言われる名古屋の雑煮だって申し訳無さ程度に葉物が入ってて

彩りに気遣っているのに。

 

 

どうしてウチはつまらない塗り絵みたいなレシピになのだろうか?

正直、刑務所の雑煮の方が豪勢のはずです。

祖父に聞いてみると、ウチは百姓時代からずっとコレで

子孫繁栄さえ実現できれば家は続く、の精神で毎年食い続けてきたらしいです。

具が少ないことの理由になっていないんですが。

結局はウチの雑煮は一種の生存戦略だったと思うんです。

百姓であったいじょう常に十分な食料がありつけなかったはずだし、

決して裕福な家ではなかったはず。

そんな中で最小限の縁起の良さを担保しつつ腹を満たす策として

編み出されたのが我が家のジェネリック雑煮なんじゃないかって考えたんです。

そして、いつしかその習慣が質素倹約を良しとする発想に転じたことで

決して貧乏でもなくなった現代に続いてるんじゃなかろうかって。

 

 

雑煮一杯からでも家系の色が見えてくる家の歴史

現代の自分の食卓に並んでるってことは

歴代先祖たちが違和感を感じることなく食べ続けた結果という意味なので、

ここで豪勢路線に転向するのも何か勿体ないんですよね。

だからこれからも具はずっと2種類でしょう。

 

 

100年後の子孫たち、まだ雑煮の具は2種類ですか?

 

 

実験機器を導入しても業務は効率化されない・・・・なぜか?

      

 

現場での機器運用に携わっている身分として、感じたことを書きました。

 

【こんな人に向けて書きました】

  • 仕事でラボ運用をしている人、しようとしている人
  • 開発現場で新しい機器を導入を検討している人
  • ラボでの作業効率を向上させたい人

 

はじめに

研究開発の現場にまつわる、ちょっとショッキングな話。。。

 

実験をしていると、日々多くの機器に触れる。

使う機器は分野でマチマチであろうけど、

バイオや化学は特に使用機器が多い分野じゃなかろうか。

手順が多い実験作業を自動化してくれる機器は、現場人間からすれば有り難い。

だけど、実験機器を導入すれば万事解決と言えるのだろうか?

必ず仕事が効率化されると言って良いのだろうか?

もし効率化されるとしたら、秘訣ってなんなのか?

今回はそんな実験機器の運用についてのあるある話

 

実験が自動化できると喜んでいたが・・・

ある時期、社内では毎日のように培養液のグルコース測定をしていた。

グルコース測定のようなポピュラーな分析手法では市販測定キットを使用する。

単純な測定原理のものだから作業時間はせいぜい30分。

ただ、手順も簡略化されてはいるとはいえ、

測定の回数や頻度が高くなっていくと手間に感じていく。

たとえ1回30分と分かっていても、準備や片付けなど雑多な作業を含めると、

日々の作業負担が大きくなる。

測定担当の人を雇ったり専任する案も出たが、

全員が掛け持ち業務で運用される環境でそれは難しい。却下だった。

加えて、今後はグルコース以外の分析も必要になってくる。

たとえば、乳酸、グルタミン、アンモニアなんかがそうだ。

これらも全てキットで分析すると、工数が増えることは間違いない。

 

そんなとき、新規に分析機器を購入する話が出た。

その機器はバイオ分野、特にバイオリアクターを用いる

発酵や創薬で使用例の多いものだ。

サンプルをセットすれば自動的にグルコースや乳酸といった成分を分析してくれる。

 

「実験の自動化」

 

現場からしてみればこれほど魅力的な話はない。

見積もりや他メーカーとの比較検討を経て直ぐに導入が決定した。

決定の決め手になったことは2点あった。

  • 自動化できる測定項目が多いこと
  • 他メーカーに比べ、機器本体の価格が安かったこと

 

2カ月後に機器が導入され現場での使用が始まった。

これで万事解決する。

自分も含め現場の人間はそう思ったに違いない。

そう思ったのも束の間、運用の課題にぶち当たることになる。

 

運用の課題1 操作の習得

運用を開始してまず感じたのは機器操作の煩雑さだった。

電源を入れて機器が温まるまで待機する。

機器まわりの消耗品を交換し、廃液があれば捨てる。

消耗品試薬が入ったカートリッジをセットする。

定期メンテナンスが必要な器具、部品があれば対応する。

機器の分析条件を整備(例えばキャリブレーション)する。

標準液を使って、狙った濃度の値が出るか確認する(クオリティチェック)。

1時間以上をかけて準備し、昼頃に肝心の分析がスタートできる。

 

面倒だ。手間が多過ぎる。

最低限の使用にも覚えることが多い。

消耗品の種類・使用期限、消耗品のロットが変わった際の対応、

この部品は何なのか?

何のために付いているのか?

なぜ定期的に交換するのか?

メーカーも納入時に講習会を開いてくれるが、

如何せん内容が多くて頭に入らない。

 

もちろん、実験機器を扱うのであれば中身の動作原理や測定原理を知るのは

現場人間として当然の姿勢なのだが、業務のなかでそれを実行するのは

どうしても手間になる。

 

 

運用の課題2 消耗品の管理

機器が導入されたら、消耗品の管理方法を整理しなくてはならない。

消耗品在庫を切らすと分析作業ができなくなるからだ。

特に外資系メーカーの製品の場合、

物理的な距離はもちろんのこと、世間の状況が影響して

納期が1ヶ月以上かかることもザラだ。

その間に実験ができないとなれば、開発もストップし痛手になる。

実際、使用人数が増えるとそういった状況になりがちで

メーカー納期と現場の折り合いをつける調整業務に時間を割くことも多い。

 

そして、特に注意したいのが消耗品コストの負担だろう。

買った機器本体が安いが、消耗品が高いケースがある。

実際に計算してみて分かったのは、

年間での消耗品コストが機器本体価格の50%近くになることだった。

少なくとも3年は使い続けるのであれば、機器本体の額をゆうに超える。

言い換えれば、機器を買った時より買った後の方が出費が高いことになる。

それがメーカーのビジネス形態であり、一番儲かるところなのだろう。

電気シェーバーを使い続けるために、高額な刃を買い続けるのと似ている。

 

研究開発で出費が嵩張るのは仕方ないとしても、

どれくらいの出費があるか知ったうえで使用したいものだ。

 

運用の課題3 トラブル対応

多機能、自動で動く実験機器ほどトラブルが多くなる傾向にある。

使う部品や消耗品が多かったり、作業者が触る部分が多くなるほど

トラブルの原因は増えていく。

加えて、使用人数の増加も機器トラブルの原因になる。

操作方法を理解せずに動かそうとする人間が出てくるからだ。

 

そしてそれらのトラブル対応をする身として困ったのは、

見たことの無いエラーが度々出てくることだ。

その度にマニュアルをめくり、機器のどの部分の問題かを探し当て、

手順に沿って1つずつ解決していく。

 

 

人間が扱ういじょう、運用方法は永久の課題

その時に思った。

「そうか、機器は導入した後が大変なんだ」と。

 

機器はあくまでも数値データを出すツールに過ぎず、

その数値を見て意思決定をしたり次の作業を考えるのは人間の仕事だ。

機器管理に時間を割いても開発は必ずしも進捗しない。

でも機器が止まると開発作業は確実にストップする。

機器運用はそういう割に合わない至極地味な戦いだ。

じゃあ機器運用専門の人員を配置すれば良いと思うだろうが、

ほとんどの研究開発ベンチャーにそんな余裕は無い。

結局は現場の人間から担当者を選定するしかない。

 

実験機器はあくまでもツールでしかない。

そのツールを使うのはただの人間で、人間であるがゆえに

面倒くさがったり忘れたりする。

なので運用の仕組みを作らなくてはならない。

といっても、仕組みづくりでさえ面倒くさいものだが。

 

最後に

この記事に最後まで付き合ってくれた方へ感謝したい。

そして、いま一度考えてみて欲しい。

  • 機器を導入さえすれば、全ての実験作業が早くなると思っていないだろうか?
  • 機器で自動化さえすれば、開発もスムーズになると考えていないだろうか?
  • 機器を導入した後の現場への指導やサポート、消耗品を含めた運用は想定できているだろうか?
  • 前述のような事例に心当たりは無いだろうか?

少しでも導入後のことを考えるキッカケになれば嬉しい。

 

機器運用の話題については今回で終わりにせず、

前向きな運用方法についても今後書いていこうと思う。

 

 

こちらもオススメの記事

www.enago.jp

www.gfd-dennou.org