培養X年目の与太話

培養、与太話

細胞培養と与太話で生きてます。

供養はやり込みゲームのような

故人の供養に必要なのは供養する人間の真心だと言われている。

そう思っていたが、供養はもっとシステマチックらしい。

 

帰省した時に母親から聞いた話

母親の旧友に霊感持ちの人がいる。

その人は昔から度々霊を引き寄せ、心身に不調をきたしてきた。

ところが最近になって霊能力者に弟子入りしたらしく、

不調の原因だった幽体離脱も大分軽減したと話していたらしい。

母親はよくその旧友と会っては、たびたび奇妙な話を土産話に持ってくる。

 

その友人が言うには、そもそも供養の目的は

先祖の霊的レベルを高めることだと

レベルを高めれば、生きている人間を助けたり、

守護したりする能力が高まると

くわえて、供養に必要なのは真心も重要だが、

単純に拝む回数が重要らしいと

 

多くの人は家に仏壇でもない限り、

先祖に対して拝むのはお盆や彼岸の機会だけで、

年に数回の機会だろう

 

しかし、それでは先祖のレベルを高めるには不足らしい。

故人の戒名で死んだ段階からレベルを上げることも出来るが、

レベルがMAX100あったとしたら、それで上げられるのはせいぜい5くらいだと

 

だから、地道に回数を重ねていくことが重要らしい。

スマホゲームのように課金のような概念は無い。

単純に地道なコミットが必要だと

 

それを聞いて、昔の、特に2000年代くらいのPS2 ゲームを思い出す。

課金などなく、単純、システマチックにプレイヤーがキャラのレベル上げに

時間を費やすあの感じ。

 

そういえば今年はコロナのこともあって盆参りに生きていない。

先祖皆々様のレベルを上げるために、帰省したら季節外れの墓参りでもしよう

 

そう思った8月末

牛込の土地に縁を感じた話

自分が所属するインテグリカルチャーは牛込(東京都新宿区)にある。

この土地で仕事をスタートしてから 早3年になろうとしているが、

今更ながら牛込に縁を感じている。

 

地名が示す通り、牛込は歴史的に酪農が盛んだった。

起源は大宝律令が制定された時期で、その歴史は1000年以上続いた。

つまり、古くから農業に縁のある土地だったことになる。

そんな土地で、新たな農業「細胞農業」を始められたのは、

単に偶然が重なっただけなのだが、全てが偶然には思えないくらい

会社のキャラクターにフィットしたストーリーだ。

 

加えて、牛込は昔から文学など小規模のコミュニティでの

個人の活動が盛んな地域でもあった。

あの文豪、夏目漱石も牛込周辺に住んだ人間の一人で、

彼の名前がついた資料館がある。

 

インテグリカルチャーも元々は小さな趣味サークルとしての

コミュニティが発端になっている。

コミュニティはマイナーであればあるほど、

内輪の絆が強く、かつ新しいことにチャレンジする傾向がある。

 

土地の歴史と会社の歴史が一致している。

こじつけのようにも感じるかもしれないが、私は縁を感じてならない。

 

偶然なのか、必然なのか?

「一期一会」が同人誌活動の魅力

私にとって、同人誌活動は一期一会そのものだ。

今年はコロナの影響でコミケが開催されない。

そんな詰まらない状況だからこそ、余計にそう感じる。

 

先日「何故、同人誌が通販で売れないのか?」を考察した記事を読んだ。

note.com

 

この記事で筆者はSNSのアンケートデータをもとに、

通販で同人誌が売れない理由は

多くの人にとって買いたいのは「同人誌」ではなく「イベントで同人誌を買った」想い出であること。

 と考察している。

 

言い換えれば、イベント会場現地での一期一会あってこそ

同人誌活動が成立することになる。

 

自分自身、コミケコミティアに足を運んだ経験が何回もある。

加えて、サークル主として参加した経験も5回以上ある。

一般参加者とサークル主の両方の立場を経験したからこそ、

同人誌活動には現場での体験への思い込みが強い。

 

しかし、自分にとってもそうだし、

多くの参加者にとってどんな体験が同人誌活動を面白くするのだろうか?

 

 

買い手としての体験

前出の引用記事にも触れられているのだが、

同人誌活動はイベント会場での一期一会があるから面白い。

ここでの一期一会とは、作品そのもの、その作者との出会いを指すだろう。

 

イベントに行ってみないことには、どんな本が売られているか分からない。

 

ある程度の規模の即売会ともなれば、開催前にカタログ本が販売される。

ただ、コミケコミティアには膨大な数のサークルが参加するため、

カタログを見たところで事前に全ての作品を把握できない。

把握できたとしても、大手のサークルか、特に個人が好きなサークルに限られる。

 

実際にイベント会場に行ってみると分かるが、

参加前には気にも留めなかった作品が傑作であることがある。

そして、それを手掛けた作者も

非常に興味深いキャラクターだったりもする。

実際に現地で見て、作品に触れないことには得られない体験だ。

VRでのオンラインイベントも盛んになってきているものの、

ネット世界では味わえない体験が会場にはある。

 

これについては、以前の記事でも触れたことがある。

sciencecontents.hatenablog.com

 

 

 

初めてコミケでサークル側で参加した時、

自分たちの本を買ってくれた一般参加者さんが言っていた。

「これだからコミケはやめられねえ」

 

まさにその通りだ。

 

 

サークル主としての体験 

私にとって、サークル主としての体験は、

イベント当日の会場での体験以前に、作品を作る過程も含まれる。

 

単に何部頒布できた、といった当日の成果だけでなく

原稿のネタ集め、執筆作業、執筆パートナーとの議論、デザイン、

印刷所への入稿から納品、初めから終わりまで全てが新鮮な体験だ。

書く内容も自分のスキルや、その時の興味によって変化するため、

常に新しい表現との出会いがある。

 

その過程で、表現したいクオリティに到達できない歯がゆさから

自分が表現者としての未熟であると感じる時もあるが、

だからこそ表現を続けていこうと思う燃料にもなる。

 

sciencecontents.hatenablog.com

 

また同人誌執筆で書くネタを得るために、

多くの人間がしないような体験をするのも

同人誌活動の醍醐味だと感じる。

 

今でも印象深い体験は、3~4年ほど前に

知人の家にお邪魔して鶏を締めて食べたことだ。

当時、培養肉をテーマにshojinmeat Project で活動をしており、

肉になる動物に対する「頂きます」の意味に迫るために体験した。

 

sciencecontents.hatenablog.com

 

世間一般的に言われている「食材に対して感謝しなさい」の意味を改めて

考える機会になったし、当時の自分の表現の一助になった。

前作の Culture Square での作品でも、

相方と焼肉店でホルモン全種類を食べ比べしたこともある。

他人は馬鹿げていると思われるだろうが、執筆していた当時は真剣だった。

 

このように、同人誌活動は生の常に体験を通して

他人の表現に触れることを楽しみ、

自分の表現を生み出す過程も含めて楽しむことにある。

 

コロナが収束したら、またコミケには参加してみたいと思う。

『コロナ対策 風邪薬飲み比べ本』とか出ないだろうか?

自分の記事を読んで、今の自分を見つめる

先日、会社広報用に自分のインタビュー記事が公開された。

 

www.wantedly.com

 

これの原稿を書くにあたって、これまでの会社の軌跡、自分がやってきたことを思い返した。

創業時に資金稼ぎのために始めたCG事業(今は畳んでいる)、現役員メンバーの仕事の変化、働く環境の変化、社内外関係ない多くの人との出会い。濃い経験をした3年間だったと思う。

そんな経験を書いた記事を公開した後、何人もの知り合いから「良かった」「思い出深くて好き」など共感の声を頂いた。PR担当からも、記事の反応が良かったと共有された。

ありがたい。

少しでも自分の思いに共感してくれる人がいるなんて、本当にありがたい。

 

しかし、その一方で問題意識もある。

会社が5期目となり、会社ができること、メンバーが増えるにつれ、自分の今のスキルや人格について見直す必要性を感じた。

社会人3年目にして、ようやく気がついた。

今のままではこれ以上の成長は無いと。

 

 

そんな思いに至った背景には、自分の生来の性格がある。

自分は子供の頃から、他人と協力することが苦手だ。

幼少期は友達が休み時間の時にドッチボールに興じる傍ら、自分は本を読んだり、飼育小屋で鶏と戯れたりしていた。

一人で生活することに安楽を感じ、本当に気を許した人間でなければ一緒にいることに苦痛を感じるタイプだった。

それは学生時代も社会人となった今でも変わっていない。

 

一方で、会社が大きくなるにつれ、チーム戦を要求される場面が増える。

プロジェクトを進めるため他メンバーと相談しあい、最適な方法を見つけて進めていく。

でも、自分はそれに苦手意識を持っている部分がある。

あまり他人の気持ちを考えられず、勢いだけでやってきた自分は、勢いだけではない建設的な方法を仲間と模索することに抵抗感を覚える。

そう実感したのは、ここ最近のことだ。

おそらく、といっても確実に、自分がADHD傾向にあるのも原因にある。

衝動的に行動してしまうところ、社会人としてやってはいけない不注意、それによって起きるミス。

自分の場合、本当にそれが多い。

だから他のメンバーに迷惑を掛けることが多い。

さらに悪いことに、自分の行いが他人に迷惑を掛けることを予測できないことも多い。実に質が悪い。

 

そんなことに気がついてから、少しだけ行動を変える意識を始めた。

人とのコミュニケーションも、発言をする前に一旦口を動かすのを止め、

相手が何て思うかを予想する。

まだ上手くできていないが、少しずつ続けていこうと思った。

 

加えて計画性。前よりも、いつ何をするか?を自分の中でハッキリさせる癖をつけようと思った。

何も決まっていない状態での衝動性は事故を招く。

その前に、まずは一呼吸おいて仕事に取り掛かることに注意を向け始めた。

 

記事は良くも悪くも、自分を実際以上に大きく見せる場合がある。

それによって支持者、応援してくれる人が増えるのは嬉しい。

一方で、それによって他人の自分への期待も高まる可能性も無視できない。

期待された人間のパフォーマンスが低ければ、待っている評価はたかが知れている。

これは冗談ではなく、近い未来に本当に起きることだと思い始めた。

いま一度、今後のためにも自分を見つめ、改善していく時間を創ろうと決心した。

言語化の重要性に気づく

何でもそうだが、物事を言語化することは難しい。

ここ3年くらいでその難しさを痛感するようになった。

 

仕事でプレゼン資料を作成する時、

自分がなぜそのプランを推すかを説明しなければならない。

創作活動をする時、自分の感性が赴くままに創作するにしても

表現したいものは言語化されなければならない。

もっといえば、何が自分を創作に駆り立てたか他人に

共感して欲しければ、それを言語化するしかない。

 

殊に、世に無いものを他人に説明する、イメージしてもらう場合は

言語化の難しさや重要性が余計に際立つことになる。

 

ややこしいことに、人間が何かを考える時、モヤモヤとした感覚でいる時、

その想いをどう表現するかの答えは潜在的にはある程度存在するのだが、

それを言葉という顕在的な形態で表現しようとすると途端に躓く。

なぜなら、その言語化もまた、自分が表現したことが無いものだからだ。

これについては過去のCulture Square としての活動での感じてきた。

その時の自分が表現できる限界で、その都度本にまとめてきたが、

初期の頃の言葉の稚拙さは今でも恥ずかしいものだった。

内容を読めば子供が駄々をこねているのと何ら変わらない。

sciencecontents.hatenablog.com

sciencecontents.hatenablog.com

 

 

尚かつ、どんな事象に対してもその詳細を正確に把握するには

言語化のプロセスが必須になることも実感している。

例えば大学の卒業論文や研究論文

多くの場合、卒業論文を書き終えたあたりで

自分がやっていた研究のことを理解すると言われている。

これは日々の実験で得られた意味を「点」として捉えるならば、

一連の実験で蓄積された結果や考察を「線」として捉え、はたまた

その研究のモチベーションとなった背景を言語化し踏まえることで

「面」としての奥行きを得るに至る。

恐らくこの域に到達することが、他人からの共感を得る段階なのだろう。

 

この考え方は今となっては研究だけでなく、

仕事や創作活動全てに当てはまると理解した。

 

この言語化の作業を重ねることで物事を体系的に捉える癖が身につき、

目的を達成するために重要なことが芋づる式に見えてくることがある。

昔よりも容易に言語化できるようになったことも感じている。

 

 

言語化の難しさを納得がいくように言語化出来ないことへの

もどかしさを感じつつ、今回はおしまい。

 

 

最後に、言語化の難しさについては、ミュージシャンの平沢も言及している。

(以下動画の6:00 ~参照)