培養X年目の与太話

培養、与太話

細胞培養と与太話で生きてます。

「猫」にまつわる曲を集めてみた

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職場に猫グッズを集めている人がいる

それ見ていたら、そういえば猫に関連する曲って幾つかあったと思い出す。

思いつくところだと・・・

 

まず、名前にCatとつく人だとこの人だろうな。

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ヘンタイ路線だったらこれだろうな

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正統派な路線だとこれか

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個人的な最the高はこれだろうか

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最後はシンプルにヤバい路線

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以上

テクノロジーの社会実装の前提にあるもの

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前に不老不死技術に触れた話を書いた。

技術がそこにあれど、結局それの行使を選択するか否かは

個人の信条により選択されるらしい。

 

sciencecontents.hatenablog.com

 

そんなことをツイッターでつぶやいた時、

あるフォロワーさんから気になる意見を頂いた。

 

科学やテクノロジーが個人の属性に応じ

「届きやすい個人」と「届きにくい個人」に分かれる社会構造があるとき、

その選択を個人の信条に帰責するのは社会問題の温存もしくは助長、

と言われてしまう時代になっていると。

その社会構造の一例に貧困があり、特に海外ではその構造が顕著らしい。

貧困層が多いある農村部では、農業を営む人々へ

農耕技術(化学肥料、品種改良)が普及していない場合がある。

すると、国全体での農作物の生産量は低いままであるため、

貧困層の性格水準からみれば割高な輸入品に頼ることになる。

ここまでをまとめると、高インフラにより生活水準が下がると

技術へのアクセスが容易でなくなる、ということになる。

 

一方で、貧困層の人々は収入を求めて都市部での出稼ぎを余儀なくされる。

都市部には高インフラの恩恵を受ける人々が住んでいる。

言い換えれば、都市部のインフラは貧困層に支えられる構造になっており、

貧困層の生活環境の悪化を助長する原因になっている。

 

この意見は私に新しい目線を与えてくれた。

つまり、新技術の社会実装が公益につながるのか、だ。

 

社会実装を目指すにあたり重要なのは、ビジネス的都合との均衡だ。

不確定要素の多い技術を確かなものにしていくには、

当然相応のコストが掛かるかわ、

コストを何かしらの形で回収する仕組みが必要だ。

開発系ベンチャーの場合、それは事業・ビジネスになる。

 

ビジネスとして開発物を世に出す以上、それなりの額を人様から頂くことになる。

企業かもしれないし、個人かもしれない。

加えて、新技術である以上、しばらくは値も張ることも確かだ。

しかし、いつまでも高額なものではインフラ技術として成立しないので、

低コスト化は長期的な課題になる。

 

ただ、この低コスト化が実現できたとしても、その背景が重要になる。

一方で、低コスト化の実現が、低賃金な労働力で支えられるとすると、

社会を俯瞰した時に本当に世の中を良くなったのか?は

議論が分かれるだろう。

でも、ビジネスとしてやる以上、どこかで割り切る姿勢を求められるだろう。

 

 

資本主義を前提に研究開発をすることの弊害だろうか。

この不均衡にも見える状態を打破する要素は何だろうか?

これは個人で考えるには余りにも複雑な問題だ。

 

最後にフォロワーさんからの有り難い言葉で締める。

いい言葉だったので、そのままコピペする。

 

特にロングショットの研究開発の場合、マジョリティの一定割合に選ばれるという

ビジネス目標だけでなく、現在のマイノリティがそうならなくなる、

社会に向けた長期のゴールを発信できる開発研究者が信用されていく気がします。

 

死生観も色々

 

多種多様な文脈で、死生観が提示されている。

どれが悪いとかではなく、どれも良い。

ただ、何を基準に選べば良いのか?

 

つい先日、数カ月ぶりに実家に戻った。

母親と雑談をしたいた時、祖父の話になった。

母親いわく

「おじいちゃんがもう80後半だから、

亡くなった時のことを色々考えておきたいの。」

祖父はまだ元気だし、趣味の競馬にも余念が無い。

正直、そこらの若者よりも頭が切れるかもしれない。

だとしても、もう80後半。

頭が冴えているうちに、死ぬまでのこと、

死んだ後のことを色々と整理しておきたいと。

 

祖父はこれまで、死に対して後ろ向きだった。

80年以上生きても、やはり死ぬのは怖いらしい。

そんな彼が母親の説得もあり、

今一度、彼は自身の最期に向けて思索し始めたようだ。

 

そんな話を聞いた後に、

Wired ウェブメディアで読んだ記事を思いだした。

死んだ後に意識を電脳世界に移し、

永遠に生き続ける構想があるらしい。

具体的には、生きている間に脳と機械を一体化させることで、

記憶や意識が永遠に存在し続ける。

死を「本人に意識があること」で定義する場合、

それは事実上の不老不死を意味する。

 

wired.jp

project.nikkeibp.co.jp

 

今風に言えば、『死をハックする』だろうか?

この手の革新的な技術構想には疑問が生じる。

倫理的、法的にどうなんだ?の話ではない。

一番の疑問は、仮にそれが技術的に実現できたとして、

私を含めた一般人は、何を基準に技術の使用を選択するのか?

この場合、

「何をもってデジタル空間での不老不死を選択するか?」

だろう。

 

『終活』が認知されるようになり、

死に対する姿勢が問われることも増えた。

終活とは言い換えれば、死ぬことへの準備なわけだから

自分の死を受け入れる姿勢が前提にある。

一方で、意識のデジタル化は死への姿勢以前に、

死そのものから逃れる方法だ。

これらの間には決定的な違いがある。

つまり、

死を前向きに受け入れるか、

後ろ向きに拒絶するか?の違いだ。

 

どちらが良いとか、悪いのではなく、

 

個人の信条に沿って選択されれば良い問題だ。

でも、だからこそ、自分で判断する以外に無い。

その時、私達は何を判断基準に選択するのだろう?

 

死を後ろ向きに捉えるのは分かりやすい。

基本的に人間は、自らから死を遠ざけようとする。

医療はそのためにあるし、死に体して後ろ向きだった

私の祖父の気持ちも理解できる。

続けたい趣味もあるだろうし、他人から忘れられていくのが怖いだろう。

そういう人たちが、意識だけが肉体が滅ぶ以前と

同様に存在し続ける選択をするのは納得だ。

 

では、死に体して前向きな捉え方なんてあるんだろうか?

私が知る限り、前向きな死の捉え方を提示しているのは

ヨシタケ シンスケさんの「このあと どうしちゃおう」がある。

人間は必ずいつか死ぬ、という大前提で

テーマが新しい死との向き合い方なわけだから

字面だけ見ると、児童対象の読み聞かせ本としては少々重い内容にも思える。

しかし、実際に読んでみると良い意味で裏切られた。

 

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【ストーリー】

主人公「僕」の祖父が亡くなったその後を描いている。

彼が祖父の遺品整理をしていると、

「このあと どうしちゃおう」と書いてあるノートを見つける。

そこには

「天国はきっと、こんな楽しい場所」

「こんな楽しい神様と話をしてみたい」

「ネコに生まれ変わりたい」

「こんな楽しい見た目のお墓をつくって欲しい」

といった祖父自身が死んで天国に移住した後に

してみたいこと、家族にして欲しいこと、

望む死後の生き方が書き溜められていた。

悲しいというよりも、

死後を楽しみにするかのような内容だった。

 

それでも「僕」は、

祖父が死への恐怖や寂しさが入り交じる中、

自分の死と向き合っていたのではと考える。

 

やがて、「僕」は自分も死んだ後、生きている間について

「どうしちゃおう」と考え始める。

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死をテーマにしつつも、

柔らかいタッチのイラスト、

ユーモアのある発想で死を表現している。

 

誰もが死を怖いものとして構えてしまうなかで、

死を前向きに、かつフラットに見つめている。

 

平等に分け与えられた死に対し、誰でも恐怖心は消えない。

だからこそ、恐怖心は死を前向きに捉えるための

エネルギー源でもあるとも読める。

 

そして、この本は死後があるからこそ、

その対極にある生きている間にどう生きるのか、と投げかける。

この絵本で描かれている死後の生き方は

生前と死後を明確に区別している。

死後の世界のことなど今は想像しかできないのだから、

今をどう生きていくかと問いている。

 

来る死を認めつつ、死んだ後を前向きに捉える姿勢

死を回避するために、永遠の命を得ることを目指す姿勢

両者の姿勢は明らかに違うけど、永遠の命には変わりない。

どちらの選択肢も尊重されるべきだと思う。

もしかしたら今の私達には認知できない

不老不死の悦びあるのかもしれないし。

 

 

漠然としているが、

これからは今以上に死をテーマに扱う機会が増えそうだ。

 

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やや話題は逸れるが、前向きな死生観という意味では

藤井風の『帰ろう』にも通ずるかもしれない。

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ひねくれた人間で申し訳ない ~テクノロジーとの向き合い方に自問自答~

私は性格がひねくれている。

自覚はあって、生来の性格、特性によるものと思っている。

これまで気を悪くした人も多いだろうが。

 

特に、テクノロジーに対する考え方は偏っているかもしれない。

ベンチャーに生きる人間である以上、テクノロジーについてはどこまでも

前向きに捉え、「これで世界が変わる」などと吹聴するのが普通かもしれない。

 

ただ、自分にはそういった姿勢が無い。

より正確には、昔はあったかもしれないが、様々な体験、

それに対する考察を重ねていくにつれ、

より中立的な立場から傍観する姿勢に変わった。

つまるところ、

「技術が発達したところで、世間は良くも悪くもならない」

「これまでの生活が、違う形で続いていくだけだ」

と思っている。

 

例えば、スマホが普及したことで確かにビジネス、

娯楽、創作活動など様々な部分が変わった。

ただ、根本的に人間の営みが変わったり、

営みを進めるうえでの悩みが解決されたかといえば、

全くもってそうではない。

人間関係はいつも悩みのタネであり続ける。

経済的な問題に悩む人もいる。

自分と他人を比較しては卑屈になったり、

自分のスキルや能力が高まったところで、

それで満足することなんて無い。

悩みは悩みとして、そこにあり続けるだけだ。

自分の行いを省みても、

Twitter のTLを見ていても、それを感じる。

 

じゃあ、その悩みですらテクノロジーで解決しようなどと

牧歌的に言う人もいるだろうが、

何に期待しているのだろうと思ってしまう。

能力や性格をインストールする未来技術の話を

始めたりする始末で、

いや、そこじゃねえだろと。

結局のところ、そこに人間が介在する限り

どこまでいっても結果は同じな気がしてきた。

まずい、またネガティブな発想に。

 

2年ほど前、仕事の関係者で思考実験を行ったことがある。

自分たちの技術が将来の世界をどのように形作っていくのか?

がテーマだった気がする。

綺羅びやかな世界観を掲げるメンバーが多い中、

自分だけかなり退廃的な世界感をプレゼンしてしまった。

 

記憶している限り、こんな感じだった。

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ある技術者がいた。

理系の大学を卒業し、

培養テクノロジー企業で技術職として働き始めて3年

一通りの仕事を覚えた頃だが、

イマイチ達成感も進歩も感じない日々を送っていた。

 

そんな時、ある娯楽に出会う。

バイオキューブと名のついたその玩具は

小さく包装された粉末袋、真四角の水槽、

水に溶かして使う粉末が入っている。

水槽の中で小型生物が生まれ、

というより、細胞レベルから発生して

個体を作るらしい。

一番興味深いのは、何が産まれるかは

時間が経たないと分からないところだ。

生活に変化を求めていた結果なのだろう。

 

自室に戻ってセッティングして、水槽を眺めてみる。

肉眼で確認できる程度の粒が見える。

ここからどう変化していくのか。

 

観察3日目

肉眼でハッキリとその大きさを視認できる。

早速こんなにも変化がみれるとは。

 

観察7日目

粒はさらに大きくなり、

ただの球形だった粒に形が見え始める。

よく見れば、角のようにも見える。

 

その後、主人公はみるみるうちに

変化していく生物を眺めながら

対して変化できない自分をか見つめることになる。

 

自分の外に対して変化を求めるのは限界がある。

変わるのは自身でしかないと悟っていく。

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当時の自分が病んでいたから

こんな世界観になったのかもしれないが、

今でもこの姿勢は変わっていない。

テクノロジーが変わっても、人は人でしかない。

自分の生活が根本的に変わることなど、ありえない。

 

正直、ベンチャーの開発人としては冷めているだろう。

では、自分は何をモチベーションに

開発に向き合えば良いのだろう。

真っ当な社会人であれば、仕事だからと割り切るのが

当たり前かもしれないが、そこを割り切れないのが

愚か者たる所以かもしれない。

でも言い換えれば、テクノロジーと人間の接点について

冷静に見つめることに執着できるのかもしれない。

 

ひねくれた人間で申し訳ない