培養X年目の与太話

培養、与太話

細胞培養と与太話で生きてます。

技術だけだとピースが欠ける

実家に帰省した時のこと。

実家でくつろぎながら親と時事ネタを話した。

その中で出てきた「卵子再生技術の開発」で面白い議論になった。

 

健康な卵子が再生できれば不妊治療に役立つ。

早い話、何歳でも子供を授かることができる。

高齢出産が多くなり、見た目40代の女性が子供を抱えている姿を頻繁に目にするようになった近年では有意義な技術かもしれない。

 

scienceportal.jst.go.jp

 

一方、自分の親はこの技術への期待に対し懐疑的だった。

というのも、子供を授かるということは、その後に子育てのフェーズが待っているからだ。

事実、「産める年齢」と「子育てできる年齢」は全く違うらしい。

子育ては体力が要る。職場の諸先輩方の話を聞いていても同様の感じだ。

そんな話を聞いて、自分の保育園時代を思い出した。

当時、保育園を利用する人はマイナーだった。

(今では競争率が20倍を超える自治体もあるというのに。)

当時としては珍しく両親が共働きであったこともあり、

自分は生後半年で保育園に預けられた。

そこからほぼ6年、両親は自分を休むことなく毎日自転車の後ろカゴに乗せて送り迎えをすることになる。

保育園に送迎バスは無かったからだ。

オマケに毎週月曜日は昼寝に使う布団までを自転車で運ぶ必要があった。

当時の両親は自分の入園児に20代半ば、卒園児には30台前半

今の世間的には十分に若いと言われる世代だったものの、それでも疲労はあったという。

今は共働きだって増えているし、30代で初子育てを経験する人も多いのだから、余計に体力を削られるはずだ。

 

これらの事実を踏まえると、技術だけで「何歳でも子供が授かれる」と言うのは余りにも安直過ぎると分かる。

 

この前提だけは今の技術だけでは覆せない。

少なくとも不老不死のような究極の技術が実現されない限り

 

話の結論は、「むしろ福祉などの社会システムの問題で議論されるべき」だった。

母親が福祉に絡む仕事を長年していることもあり、納得感はあった。

真っ先に争点になるのは保育園の確保だろう、となった。

子供を預けられる保育園は認可、不認可の保育園など様々だが、やはりほとんどの自治体で圧倒的に場所、人が足りない。

 

しかしその保育園が最近、国策と自治体の政策がマッチしない問題が発生している。

今週になってニュースにもなった保育料の増額は親たちからすれば寝耳に水だろう・

むしろ自治体ではなくてスタートアップなどの民間会社が解決すべき問題などでは?

www.msn.com

 

www.asahi.com

 

「培養肉食べてみたいが3割」問題のややこしさ

※以下の内容はあくまでも個人的な意見です。

 

 

つい先週、こんな記事を見た。

 

www.nikkei.com

 

以前から日清食品は東大との共同研究を皮切りに培養食肉の開発に着手していた。

細胞農業と言われるこの領域の企業のほとんどが海外企業、スタートアップである中、

日本の大企業が参入の意思を示したことは世界的にも注目すべきことだ。

 

同社独自の調査によれば、その培養肉を食べたいの回答が3割だったらしい。

これをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかは様々だろう。

個人的には、3割「も」いる!である。

 

www.nissin.com

 

それにしても。。。

この「食べてみたいが3割」問題は、必要以上にややこしいバックグラウンドで議論されている印象が強い。

理由として次の3つがあると考えた。

 

 1.業界全体で技術に実体が伴っていない

そもそも、世界的に見ても技術に実体が伴っていない。

ここでいう「実体が伴う」とは、食べれる培養肉が安定的に生産できる目途が立っており、一般の目に見える形で存在していることと定義する。

現状の培養肉はあくまでも研究開発の域を出ておらず、食品としての現実味を帯びるのはまだ先だ。

何よりも、大規模かつ安定的な生産に向けた技術に目途が立つにも時間が掛かる(とはいえ自分の所属する会社含め、どこのスタートアップも数年以内の実装を目指している)ため、食としてテーブルに並ぶのは未だに希望的観測でしかない。

 

こうした実体が伴わない状態で「培養肉食べてみたいですか?」の質問をしたら、一般回答者からすれば「まあ、うん。。。。。」な状態になることは目に見えている。

ポジティブなイメージを持つのは、テクノロジー方面にミーハーな層だろう。

 

2.培養肉の利点は、利点足り得るか??

培養肉の存在意義については、多くの記事で触れられている。

特に代表的な物は、環境負荷と動物愛護の観点だ。 

wired.jp

www.hopeforanimals.org

 

しかしながら、これらの利点が果たして利点足り得るのかは甚だ疑問だ。

確かにこれらの利点は環境保護や動物愛護に熱心な層には刺さることは間違いない。

しかし、議論が「より多くの一般ユーザー」まで落ちてくると話が変わる。

エビデンスがあるわけではないのが残念だが、そもそも多くのユーザーにとっては環境問題や動物愛護は自分事になり得ない。

メディアでは昨今の環境問題として、様々なネガティブな話題が取り上げられるため、必然的に「環境問題は解決すべき」という意見が多くなるのはその通りだろう。

動物が殺される現状というネガティブな話を切り出されれば、それを回避する策があった方が良いと考えるのも自然だ。

 

しかし、実際に私生活での行動に反映させている人がどれだけいるだろうか?

意見をすることと、実際に行動するかは全くの別問題だ。

培養肉に興味があると言う全ての人に問いたい。

 

ごみの分別は厳密にしているのか?食品トレイを燃えるゴミに出していないか?

筆者は何も気にせず燃えるゴミに出している。

 

動物愛護を考えて生活しているか?

筆者は何も考えていない。むしろ実験で解剖はするし、鶏のと殺まで経験したことがある。

 

 

実際のところ、これらの論点は企業が有利に市場で生きるためのメッセージという位置づけが強い。

 

自分事になり得ない事を利点に挙げたところで、「じゃあ実際に食べてみたい。作ってみたい」などのポジティブなアクションに繋がるとは思えない。

 

3.「グローバルな課題解決」と「ユーザー目線の問題」が混同している

環境負荷や動物愛護がどうだとかはグローバルな問題とされている。

地球規模の問題として解決すべきであることには違いない。

そして、それを解決する手立てとしての培養肉というコンセプトも筋が通る。 

一方で、実際にユーザー(そもそも現時点でユーザーなど存在しないが、敢えてそう呼称する)が生活に取り入れるか否か、は全くの別問題として捉えるべきだ。

これは先に内容と話が通ずる。

 

まず、現物を見たところで反応が分かれる可能性がある。

見た目を本物の肉に近づけたとしても、培養というプロセスにイメージを持たない人が大多数の現状、実際に口に含む人は1割もいかないと思っている。

生活の中に「あっても良いイメージ」を持つに足るエビデンスが足らない。

世界が変わっていくことと、個人の私生活が変わっていくことの間には明らかな境界線がある。

それらを一緒にして議論すると、ややこしいだけだ。

 

今はまだ、大衆が食べることを想定しても無駄な段階だろう。

培養肉が普及するには、まずは一部の革新的でクレイジーな層(マーケティング的にはアーリーアダプターと言うらしい)が食事に取り入れる過程から入ることになるだろう。

一般大衆にとっての有益無益の議論が始まるのは、そこからの気がしている。

 

有難いモノの話

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本日、ちょっとしたミスをして気付きを得た。

備忘録までに。

 

夜に飲み会に誘われていた。

上司から交流のある企業さんと飲むから合流しないかとのことだ。

実験が立て込んだことで同時には出発できず、一人作業を済ませてから向かった。

オフィスから駅まで歩いて5分

駅の改札口を通り駅のホームまで着いたところであることに気が付いた。

 

「携帯を忘れた」

 

普段実験時には携帯を持ち歩いているのだが、それをラボの遠心機の上に置きっぱなしにしていることに気が付いた。

 

これは困った。携帯が無いと飲み会の店の名前と場所を確認できない。

遅れますの連絡をしたいところだが、携帯も無ければメッセージも送れない。

結局オフィスに小走りで戻り、新宿の店で合流した。

 

何てことない、ただの物忘れ話だと言えるが、この体験を通して実感した。

 

今の自分の生活は携帯が無いと成り立たない。

ほんの十数分とはいえ、携帯が無いことがこんなに不便だと思わなかった。

 

基本の連絡手段は携帯に委ねられているし、仕事に関するデータをオフィス外から確認するにも携帯が必要だ。

 

話は移るが、クレジットカードも同様だ。

先月にオランダのマーストリヒトへ学会発表に出かけたが、現地での3日目にクレジットカードにトラブルが生じて使えなくなった。

キャッシュレス化が進むオランダにでクレジットが使えないことに絶望したのを記憶している。

 

さて、これらの話を総合しての何が言えるか?

それは今の自分たちの生活がこれ無いと生活死ぬレベルの「有難いモノ」が多いということだ。

 

そして気になったのは、今自分がスタートアップで従事している細胞培養技術の開発で同じような価値を生むとしたら、どんなストーリーがあり得るだろうか?

細胞培養で有難いモノを作っていけるか?

ということだ。

 

携帯もクレジットも生活必需品かつ貴重品だが、培養技術が生み出すプロダクト(恐らくハードウェアを指す)が同様の価値を生み出すとしたら、どんな状態で、人々がどのように使う世の中なのか?

 

弊社代表陣は

「そのうち培養技術はパーソナライズ化(個人向け)になる」と言う。

自分もそれを信じてやまない。

一方で、それがどのような形態で達成され、「これが無いと生活死ぬ」の状態になるのか?

正直、今まであまり真剣に考えたことが無かった。

会社の技術が日々進みつつあることは間違いない。

内部の人間としてそう実感しているのだが、そこから先の破壊的なイノベーションの形は霧の中にある。

 

それを実現するために、何よりも技術が実体(現物)を伴うが必要だと感じる。

バイオは実験ベースの理論は多いものの、実体を伴うのに非常に時間が掛かる分野だ。

だが、技術が格納される箱をプロトタイピングくらいは出来る。

勿論、プロトタイプするにもそれなりの根拠を用意する必要がある。

 

Apple にしても Microsoftイノベーションを見ても分かる通り、人々の生活は決まってハードウェアありきだ。

 

有難いモノ

作ってみたい。

 

そんなしょうもない話

培養肉と共感の難しさ ~創作・表現を通じて感じた共感~

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遅ればせながら、夏コミお疲れ様でした。

本サークル Culture Square は参加が2回目となった。

備忘録、反省、反芻の意味を込め、本作制作を通じての感想を書き記しておく。

 

 

 

サークルの相方 Take とは培養肉のイメージや一般生活の中での実装について、ここ1年ずっと議論してきた。

なぜ培養肉を実装する必要があるのか?どこにその必然性があるのか?宇宙での生活といった限定された用途ではなく、未来の日常の中で存在する意味がどこにあるのか?

 

読み手に共感を持って貰うにはどのような表現が必要なのか?

 

そもそも、今の培養肉のコンセプトは一般の人が共感しうる要素が少ない。

宇宙好きやSF好きの人間からすればど真ん中のコンテンツかもしれないが、それ以外の人達の存在は?

SF好き以外からすれば、培養肉は「将来実現されるかもしれない凄そうな技術」でしかない。

動物を殺さない、環境負荷が低い、といったメディアで取り上げられる社会的なメリット以外で何も意義を感じないだろう。

 

詰まるところ、彼らからすれば培養肉を自分が使う意味や必然性は無いのだ。

「これならウチにあっても良いかもね。自然だよね。」の要素が無い。

世間的にはテクノロジー好きな人間、一部のジャンルのコンテンツ好きの人間たちの興味対象の域を超えられない。

 

本サークル Culture Square はここに疑問を持ち、培養が実生活に取り入れられる意味を創作という形で探求している。時には外部の人とも議論の場を設けている。

 

 

様々な表現を試しているが、シックリくる表現が出来るのはまだこれからだと思っている。前作と比べれば格段にクオリティーは上がったと実感しているのだが。

 

そんなことを思っている最中、例年のようにサークル参加しているコミケでヒントを得た。

ヒントの種になったのが YOMEYUMEさん他が制作した作品「YOMEYUME」だった。

これは二次元嫁の夢の続きを見るために、彼女たちをモチーフにした建築を提案する本だった。

 

 

単純に建築を専門とする人間が、二次元嫁のためにその専門性をいかんなく発揮すること自体にも驚きなのだが、何よりも気になったのが同じキャラを読めとするファンからの反響だった。以下ツイートを引用

 

 

 

同じキャラへの愛を持つ人間だからこそ深く突き刺さる共感を感じた。

二次元嫁は決して現実世界に出現することはない。

一方で彼らからすれば、脳内の仮想空間だけであったとしても、二次元嫁の存在は今確かにそこにある「リアル」として共有できる要素だ。

 

 

この「共有できるリアル」というのが重要なヒントだと感じている。

培養肉というものを今ここにあるリアル、言い換えれば今の自分を取り巻く生活、環境、感情とどこまでリンクさせられるか、それが重要だと感じた。

 

 

さらに言えば、同じ嫁を持つ人間という特定の読み手がいることも重要だと言える

読み手に届くためには、まず読み手の像を具体的にしなくてはならない。

言い換えれば、誰に書くのかを明確にする必要がある。

(むしろ今まで ↑ を考えずに書いていたから驚き)

 

 

次回はこれまでの流れを汲みつつ、コンテンツの趣向や構成に工夫を凝らしたいと思っている。

非常に難しいが、今後が楽しみだ。

細胞培養してる我々は詰まるところ農家なのだけれども、結局現実の農家さんの方が大変

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細胞農家として仕事しています。

細胞農家といってもこれは自分で勝手につけた職業名であり、世間一般には細胞研究者とか細胞培養士みたいな風に呼ばれることがあるようですね。

 

なぜ農家という言葉を使うかというと、自分の生活が完全に細胞に支配されているから。

毎日のように細胞の世話に追われるから

奴ら(細胞)は自分で餌を取れないので、定期的に人間が餌(培養液)を与えなくてはならない。

個体の生物のように、免疫機能を持っているわけでもないので、カビやら雑菌が培養液に入ったら高確率で終わる。

個体でもないから、自分で快適な場所を求めて移動したりもしない。

(ミクロな世界では、実は細胞が特定の因子を求めて彷徨うことはある。)

生育環境は人間が用意して、奴らの快適な環境を創ってあげないとマズイ。

しかも、とてつもなく餌代が掛かる。

これで結果出せなかったら皆死ぬぞ!と。

 

勿論、実際の畜産農家さんの方が大変なのは分かってます。

毎日乳を搾ったり、餌をやったり。

以前会った農家さんは毎日3~4時間睡眠で世話をしてると言っていた。

俺らよりハードはじゃないか。

 

そういえば経験則的に病気かどうかも分かるって話、細胞にも当てはまるような。

長年細胞を見てきた猛者先輩は、第六感のようなもので細胞の未来を予知するものまでいる。

 

俺もそんな農家になれっかな?