※以下の内容はあくまでも個人的な意見です。
つい先週、こんな記事を見た。
以前から日清食品は東大との共同研究を皮切りに培養食肉の開発に着手していた。
細胞農業と言われるこの領域の企業のほとんどが海外企業、スタートアップである中、
日本の大企業が参入の意思を示したことは世界的にも注目すべきことだ。
同社独自の調査によれば、その培養肉を食べたいの回答が3割だったらしい。
これをポジティブに捉えるか、ネガティブに捉えるかは様々だろう。
個人的には、3割「も」いる!である。
それにしても。。。
この「食べてみたいが3割」問題は、必要以上にややこしいバックグラウンドで議論されている印象が強い。
理由として次の3つがあると考えた。
1.業界全体で技術に実体が伴っていない
そもそも、世界的に見ても技術に実体が伴っていない。
ここでいう「実体が伴う」とは、食べれる培養肉が安定的に生産できる目途が立っており、一般の目に見える形で存在していることと定義する。
現状の培養肉はあくまでも研究開発の域を出ておらず、食品としての現実味を帯びるのはまだ先だ。
何よりも、大規模かつ安定的な生産に向けた技術に目途が立つにも時間が掛かる(とはいえ自分の所属する会社含め、どこのスタートアップも数年以内の実装を目指している)ため、食としてテーブルに並ぶのは未だに希望的観測でしかない。
こうした実体が伴わない状態で「培養肉食べてみたいですか?」の質問をしたら、一般回答者からすれば「まあ、うん。。。。。」な状態になることは目に見えている。
ポジティブなイメージを持つのは、テクノロジー方面にミーハーな層だろう。
2.培養肉の利点は、利点足り得るか??
培養肉の存在意義については、多くの記事で触れられている。
特に代表的な物は、環境負荷と動物愛護の観点だ。
しかしながら、これらの利点が果たして利点足り得るのかは甚だ疑問だ。
確かにこれらの利点は環境保護や動物愛護に熱心な層には刺さることは間違いない。
しかし、議論が「より多くの一般ユーザー」まで落ちてくると話が変わる。
エビデンスがあるわけではないのが残念だが、そもそも多くのユーザーにとっては環境問題や動物愛護は自分事になり得ない。
メディアでは昨今の環境問題として、様々なネガティブな話題が取り上げられるため、必然的に「環境問題は解決すべき」という意見が多くなるのはその通りだろう。
動物が殺される現状というネガティブな話を切り出されれば、それを回避する策があった方が良いと考えるのも自然だ。
しかし、実際に私生活での行動に反映させている人がどれだけいるだろうか?
意見をすることと、実際に行動するかは全くの別問題だ。
培養肉に興味があると言う全ての人に問いたい。
ごみの分別は厳密にしているのか?食品トレイを燃えるゴミに出していないか?
筆者は何も気にせず燃えるゴミに出している。
動物愛護を考えて生活しているか?
筆者は何も考えていない。むしろ実験で解剖はするし、鶏のと殺まで経験したことがある。
実際のところ、これらの論点は企業が有利に市場で生きるためのメッセージという位置づけが強い。
自分事になり得ない事を利点に挙げたところで、「じゃあ実際に食べてみたい。作ってみたい」などのポジティブなアクションに繋がるとは思えない。
3.「グローバルな課題解決」と「ユーザー目線の問題」が混同している
環境負荷や動物愛護がどうだとかはグローバルな問題とされている。
地球規模の問題として解決すべきであることには違いない。
そして、それを解決する手立てとしての培養肉というコンセプトも筋が通る。
一方で、実際にユーザー(そもそも現時点でユーザーなど存在しないが、敢えてそう呼称する)が生活に取り入れるか否か、は全くの別問題として捉えるべきだ。
これは先に内容と話が通ずる。
まず、現物を見たところで反応が分かれる可能性がある。
見た目を本物の肉に近づけたとしても、培養というプロセスにイメージを持たない人が大多数の現状、実際に口に含む人は1割もいかないと思っている。
生活の中に「あっても良いイメージ」を持つに足るエビデンスが足らない。
世界が変わっていくことと、個人の私生活が変わっていくことの間には明らかな境界線がある。
それらを一緒にして議論すると、ややこしいだけだ。
今はまだ、大衆が食べることを想定しても無駄な段階だろう。
培養肉が普及するには、まずは一部の革新的でクレイジーな層(マーケティング的にはアーリーアダプターと言うらしい)が食事に取り入れる過程から入ることになるだろう。
一般大衆にとっての有益無益の議論が始まるのは、そこからの気がしている。