培養X年目の与太話

培養、与太話

細胞培養と与太話で生きてます。

鶏肉で今一度「頂きます」を考える。 ~食卓までの過程を体験する意味~

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突然ですが、先日鶏のと殺から食すまでを一貫して行うという非常に衝撃的な体験をしたので、その記録を残そうと思う。

 

きっかけは昨年の夏に行われたコミティアの会場で「ひのまる呉服店」さんというサークルさんと知り合ったことだ。

ここのサークル主さんは日本文化ネタを中心に情報発信を行っており、作者自身の鶏のと殺体験をまとめた「頂きますマニュアル」という同人誌は非常に興味深いものだった。この同人誌は単なる体験記ではなく、と殺から食す行為を一貫して行い、普段食べている肉の命に対し感謝を深めるとともに、消費社会における生命倫理を考える内容だった。

扱う内容が近いこともあり仲良くなった後、サークル主さんから
「また鶏の活動をやるのですが、来ませんか?」というお誘いを頂いた。

 

 

私が扱う「純肉(純粋培養肉)」の技術は、理論上動物を殺さず肉を作ることができる。実際、欧米諸国だと動物愛護をモチベーションに実装を進めているベンチャーもある。

私個人のモチベーションは「食の持続性、安定性」「場所を選ばない生産」がモチベーションではあるが、いずれ生命倫理についての議論にも参加していく必要もあるだろう。

しかし、生命倫理について具体的な知見を持たない自分が生命倫理を語っても良いのだろうか?という自責の念を抱くようになった。さらに言えば、自分は普段食べている肉がどのような経緯を経て食卓に並ぶかを知らない。知識レベルでは知っているが、この手を汚して実感を得るレベルではない。そんなこともあり、今回の参加を決めた。

 

「動物を殺す経験から考える」行為に矛盾を感じる人もいるかもしれないが、我々が普段口にする肉の由来を知ることによってShojinmeatのキーワードでもある「頂きます」の理解を深めることに繋がると思った。

 

 


前振りが長くなったが、今回はそのレポートをしようと思う。

※今回はグロテスクなシーンの画像掲載は自粛していますが、人によってはややショッキングな内容を含みます。

 

 

1.自分の手で処理し、命の終わりを見届ける。

 

駅で待ち合わせた後に案内されたのは閑静な住宅街。
前回同人誌を執筆した際も自宅の庭で作業を行ったらしい。

 

一通りの準備を済ませると、庭の裏から生きた鶏が入っている段ボール箱を取ってくる。歳をとって卵の産みが悪くなった雌鶏らしい。暗く狭い空間に入れておかないと鳥が暴れてしまうらしい。鶏の世話は小学生時代に飼育委員会で長いことおこなってきた。鶏に触るのは10年ぶりぐらいだが、特に抵抗は無い。段ボールに鼻を近づけると糞の匂いがする。飼育委員時代に数えきれないほどに嗅いだ匂いだ。命を感じる。

 

段ボールを持つと重みがある。中で微かに鶏が動く。これから殺すことを実感し始める。作業場に着いたら、素早く鶏を段ボールから出して両羽、両脚を紐で結ぶ。生きている間のほとんどの時間を狭いゲージの中で過ごしたとはいえ、足の力はしっかりしており、走り出すと捕まるのが一苦労だからだ。この後、梁から垂らした紐に脚を括り付け、逆さまに鶏を下げた。

 

ここからは全工程がスピード勝負だ。2本ある頸動脈を切り、血抜きをしないとならない。工程を知らない人が「断頭すれば自然に血が飛び出すんだろ」と言うのを耳にするが、実際にそんなことは起こらない。血を効率的に抜くには心臓が動いたままの状態を維持しなくてはならない。断頭をすると脳と心臓を繋ぐ神経までもが切断されてしまい、血抜きが不十分になる。「断頭の方が苦痛も少なくて良いのでは?」という意見も出そうだが、血抜きが自不十分だと臭みが強くなり味が落ちる。「殺す以上、最大限に美味しく頂くのが筋」という考えのもとの工程だ。

 

頸動脈を切る作業が自分のような素人には一番堪える。泣き叫ぶ命を殺すことへの躊躇なのか。鶏には麻酔など一切していないため、苦痛を最小限に抑えるためには、スピーディーに行わなくてはならない。案の定、なかなか上手くいかず鶏には悪いをことをした。首が厚い皮に覆われており、解剖用のハサミの刃を深く入れないと作業が進まない。

 

野菜や魚をさばく時、ここまで躊躇するだろうか?恐らくしないだろう。
人間は自分の遺伝子に近い動物ほど、自分たちと同じような命を感じる動物ほど、殺すことを躊躇うようにできているらしい。その究極的な例が殺人であり、法的制裁を受けることになる。

 

頸動脈を何とか切断すると、鶏が断末魔を上げる。吊るしたビニール袋の中でバサバサと暴れ、最後の力を振り絞るように動く。そしてやがて10数秒と経たないうちに動きは止む。生命が停止したことを実感する。

 

絶命した鶏は直ぐに羽を抜く作業に入る。腐敗の影響を考えるとここからもスピードが求められる。鶏をお湯に漬けて温めたのち、体が冷めるまでに素早く抜いていく。初夏だから良いが、冬だと作業は不利になる。

 

羽は意外と根が深く、ビッシリと生えていて抜くのに苦労する。
この作業をしていると、「スーパーで売られている鶏ってどうやって毛を抜いてるんだろ?」と不思議になっていく。恐らく専門業者の技術があるのだろう。

 

冷めるとまたお湯に漬けたりもするが、漬け過ぎると今度は皮の脂が抜けてしまいパサパサした身になってしまう。

 

完全に羽が無くなるまで約1時間。屠畜所ではこれが工場的な生産体制の中、自動化されているに違いない。じゃなきゃ生産が追い付かないだろう。

 

これがつい数十分前まで生きていたのか・・・。
物思いに更ける。

 

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2.まだ温かみを持つ体

羽が抜けた鶏はまず頭と尾を切り落とし、中から内臓を取り出す。
内臓は全てが繋がっているため、一度掴んで強く引っ張ると芋づる式に取り出すことができる。

 

内臓を取り出そうと後ろから手を突っ込んでみる。まだ体温が残っている。
腸を引きずり出すと中から糞が出てくる。匂いはやはり強烈だ。
スーパーで買える内臓は綺麗に洗浄されていて意識することすらないだろうが、実際は糞まみれだ。当然だが。

 

これが終わると次に足のもも肉を切り出す。
その次に手羽、ささ身を済ませると大方の素材は取り出すことになる。

 

目の前にある肉の残骸を見ていると、再度「これが数十分前まで生きていた」と考えてしまう。

 

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過去の歴史上、人間は野蛮なものを生活から遠ざける経緯がある。
動物を殺す仕事はその最たるもので、その仕事は一部の人間たちが肩代わりしてきた。

 

しかしこうしてみると、普段から自分たちが大量の命を消費して生きていることを改めて実感する。頭では分かっていても、実際に自分の手にかけてみると実感は増すばかりだ。

 

「頂きます」の背景に鶏の断末魔があると想像するだろうか?
「頂きます」の背景に酷い匂いの中での作業があると想像するだろうか?

 

ここまでの手順を踏んでいる(実際はさらに複雑かもしれないが)にも拘わらず、安ければ100gで100円程度で食べられることへの矛盾を感じざるを得ない。

 

 

 

3.そして食す。そもそも我々が食べている肉って・・・・

もも肉、ささ身は水炊きで、手羽は照り焼きにして食べてみた。
食べてみて一番驚いたのは身の固さだった。全く歯が立たない。
普段食べている肉は簡単に噛み切れるのに、皮が厚く、身も固く、食べるのにこんなに根性がいるのか?とすら思ったほどだ。
主催者さんの話によれば、「食用の鶏肉は食べやすいように飼育や品種を最適化されている。仮にサバイバルで野生の鳥を食べようものなら、今回の状況に近くなるはず」とのことだった。
なるほど、もし同じことが鶏以外の野生の動物の肉でも言えたらば、野生の肉食動物の顎が強い理由も納得がいく。

 

実際の食用の鶏は与える餌の種類、飼育期間、長年の品種改良により程よい肉質になるように調整されているということだ。


この点を考えると、我々が普段食べている肉は食卓に運ばれる過程にとことん人間の手が介入しており、事実上「人工肉」と言っても良いのではないか?

 と考えた。

 

加えて考えたことは、本当の意味で「良い肉」とは何なのだろう?
ということだ。

 

我々が食べている肉は、味や風味の優劣はあれど、噛み切れないほど固い肉というものは滅多に無い。そんなものを食品として流通させたら間違いなくクレームが来るだろう。

 

我々は「食用の肉=最低限度に柔らかい肉」という大前提のもとで肉のクオリティを吟味する。餌に〇〇を使ってます、自由に運動させています、A5ランク云々はまさにそれだ。

 

ここまでくると、生産の過程で行われる数々の苦労や試行錯誤を知らずに、「どこどこ産の肉は~~~」と講釈することは如何せん馬鹿々々しいものとすら感じてくる。

 

 

主催者さんにお礼を言って家路に着いた。帰宅して食べた夕飯は鶏肉の煮込みだった。
少々複雑な気分だったが構わず食べた。やはり肉質は柔らかい。
消費することに慣れた現代において、あそこまで色々考えさせてくれた肉こそ、本当の意味で「良い肉」であるように感じた。

 

(ここからは投稿後にShojinmeat メンバーから得たコメントを元に更新しています)

この記事を投稿した後、メンバーからコメントを受けた。

 

言われてみれば、彼の言うことも一理ある。
今回は自分の手で屠殺するところから始めたが、それ以前にも飼育(餌やり、水やり、清掃、施設管理)というプロセスが存在しているはずだ。
どのくらい環境に負荷が掛かるのか?人的リソースが掛かるのか?
鶏達にどのくらいの負荷を掛けているのか?
まだまだ見えていないことだらけだ。


色々考えさせられたとはいえ、自分たちが見ている物はまだ氷山の一角に過ぎないということか。そこのプロセスを体験して知った時、自分の中にある「良い肉」の価値観に更なる変化がもたらされるかもしれない。

 

※より深いことを知りたい方はひのまる呉服店さんの「いただきますマニュアル」を読んでみることをお勧めする。大型同人誌即売会でも通販でも購入可能なので、是非一読頂きたい。

 

<参考資料>

肉質を向上させる飼育管理

卵用鶏のエサの特徴

www.cgegg.co.jp

 

 

コミックマーケット92 サークル出展レポート

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 お久しぶりです。Shojinmeatの田中です。

 

先日コミックマーケット92にサークル参加してきたので、レポートします。

 

今回は「初めての方向け」「やや技術玄人向け」の新刊2冊を引っ提げての参加でした。最終的には300冊くらいがはけ、最高の結果だったと思われます。

 

イベント終了後のツイッターを見ると、反応がチラホラ。
編集長の言葉を借りれば、「評価されること自体が嬉しい」

 

 

 

次回のC93にも申し込みは済んでおり、次回の新刊のネタを考える段階になっています。そろそろ家庭用細胞培養器がアップグレードされると思うので、そのあたりの報告ができれば、と思っています。

 

以前から進めている「君の肝臓を食べたい」プロジェクトにも進展がありそうです。

 

 

 

戦利品も充実しており、満足です。

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なお、今回のイチ押しは「エロゲー人工知能」でした。
以上です。ではまた。

理系学生団体「理系+」イベントにて変態枠で登壇します。

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 今月 8/26 理系学生団体「理系+」のイベント
「理系夏祭り~院生の研究プレゼン大会~」にて変態枠で登壇することになりました。

 

「生ものづくり」という全く新しい概念が通用するかは?は微妙ですが、とりあえず発表します。

 

「意識高い」とかとは別次元の話に成る予定です。
覚悟しておけ。

 

 

飲み会代くらいは出るんじゃないか?という勝手な期待をしつつ、発表してきます。

 

 

 

ところで今年も夏コミにて薄い本を出すんですが、アメリカの細胞農業推進NPO

" New Harvest"のツイッターにも取り上げられ、色々後に引けない状況になりました。

てなわけで、開き直ってそんな状況を楽しもうと思います。 

 

 

 

 

C92 サークル出展します!

夏コミまで約1か月となりましたね。 

ここで改めてサークル告知をします。 

 

 

思えばコミケに初めてサークル参加したのは丁度1年前の夏C90でした。
その時はまだ初版だったこともあり、今となってはショボい表紙絵でやってました。

 

今回はイラストレーターの方に協力頂いたりしながら、これまでのShojinmeat Projectとしての軌跡を色々明かしていこうと思います。

なお、今回は新刊2冊となります。

 

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それではC92 3日目 東S-32bにてお待ちしています!!

 

「フォルカスの倫理的な死」で考える純肉社会

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 こんにちは。今日は少し方向性を変えて、とある短編小説の解説記事を書こうと思います。あくまでも個人的な見解で書いていることをご承知ください。また、部分的に本文を引用しています。

 

皆さんは「フォルカスの倫理的な死」というネット小説をご存知でしょうか?
Web小説家の「まくるめ」さんカクヨムにて公開されている1話完結の短編です。

 

kakuyomu.jp

 

 

 

なぜこの小説を取り上げたかと言うと、細胞培養で製造する肉(純肉)技術が浸透した世界を描いている点にあります。僕らShojinmeatが「こんな可能性あるんじゃないか?」と懸念した世界と、驚くほどにドンピシャだったもので。

 

この作品は「純肉社会の光と闇を描いている」数少ない作品です。
細胞培養技術によって社会がどう変わったのか?それによって、登場人物たちに起きる葛藤が彼らの行動、展開にどのような影響を及ぼすか?を良い意味で生々しく描いています。
以前の記事でも書きましたが、これが創作物の面白さであり、
新しい科学コミュニケーション手段になると考えています。

 

 

sciencecontents.hatenablog.com

 

 

 

 

 

その世界観とは?

 ごきげんよう、新人類。

 あなたは当社の商品で偉大なる一歩を踏み出すことができます。

 これまでの人類がけしてできなかったことです。

 何も殺さずに肉を食べることができるのです!

 

物語は ”動物を殺さず肉を作り提供する”企業、「ノンカルマ・フードサプライ社」のパンフレットの一節から始まります。この企業が開発した無限に増える細胞を使った食糧生産技術により、人類は動物を殺さずに肉を手に入れる手段を獲得しました。

 

作中では

  • 喫煙者が非常に珍しい存在である
  • 伐採による紙の生産は非常に非倫理的である
  • これらは21世紀の悪しき慣習とされている。
  • 自動運転技術が普及している
  • 動物を殺す食肉生産が違法化している。
  • 規模の経済により、純肉生産が効率化、且つ大規模化している。
  • 純肉を食べて育った世代が大人になり、純肉消費がメジャーとなっている。
  • 人類は現代人が食べている肉を気味悪いものとして認識するようになる。

という設定から、時代は技術が今以上に発達した22世紀であり、現代人(21世紀人)の常識や倫理観とは全く異なる世界で動いていることが想像できます。

 

 

塗り替えられた倫理観

わたしは動物愛護団体の皆様の前でも、堂々とネクタイをしめてステーキを頬張ることができます。間接的にすら、何も殺していませんから。

進歩する科学技術の後ろには、ビジネスがいる。ビジネスはどこまでも科学のあとを追いかけていくし、資金を提供してそれを加速させる。科学が加速すればビジネスも加速する。そしてその後ろには、倫理がある。

技術がひとつ見いだされるたびに、倫理は変わっていく。倫理の変化のスピードが人間の一生より長かったうちは、きっとまだよかったのだろうと思う。でも今では人生の長さの期待値はずっとずっと伸びたし、科学技術の進歩は等比級数的に加速していく。

彼らの多くは、肉を食べるために動物を殺すことがどういうことなのかうまく想像することすらできなかった。それは彼らにとってただ理解不能な行為で、ただ悪だった。

 

 

これらの言葉が指摘する通り、新しい技術、特に革新的な技術と、新倫理の誕生は表裏一体にあります。

 

純肉における倫理とは、主に「動物を殺さずに肉を食べる」が議論の焦点です。実際、アメリカのベンチャー企業 Memphis Meats は動物倫理を推して純肉開発を行っています。

 

今までの歴史上、倫理観が塗り替えられるには100年単位の時間が必要でしたが、新しい技術が続々と生まれ社会の変化が激しくなると、その「塗り替え」に必要な時間は加速度的に短縮されていくと考えられます。

 

純肉技術が広まることによって懸念されることとして、「技術導入が遅れた発展途上国が国際的な批判を受ける」があります。仮に従来の肉が悪とされた場合(無いとは思いますが)、経済的・技術的に即座に適応できなかった国や地域が、まるでカニバリズムをしているかのような国際的嫌悪感に晒される可能性は十分にあり得ます。

 

 

影響は人間のみに止まらず

犬は時代の流れに従った。

 古代、犬は人間と狩りの獲物を分けあっていた。前世紀の犬はカンガルーや牛から作られた配合飼料を食べていた。今の犬は培養された肉で作られたドッグフードを食べている。彼らはそろって時代の変化に合わせることができた。

 問題は猫だった。猫は犬ほど素直ではなかった。正確に言えば、猫たちの一部は新しい肉に問題なく適応したが、少なからぬ猫たちはいっさい受け付けなかった。理由はわからない。今でもわからない。

 

 純肉による社会変容の影響は、当然人間だけに止まることはありません。
従来のペットフードもウシ・豚・鶏を殺して生産されている以上、彼らペットが食べる肉も当然純肉に移り変わっていきます。

 

そして、その変化に対応できなかったペットたち(特にネコ)がどんどん弱っていく。ある意味「淘汰された」という意味なのかもしれませんが、自然ではなく、社会に淘汰されたとも言えます。

 

「動物を殺すことを禁じたために、動物が死ぬ」という矛盾を感じるしかないことですが、実際この社会現象は起きると考えられます。この被害を最小限に抑えるには、ペットが幼齢の頃から純肉を食べさせて、人間のみならずペットの味覚までもをアップデートするしかありません。

 

 

光と闇を描くことの意義

ここまで描かれた純肉の光と闇は、あくまでの想像の域でありますが、科学技術がどのように人の暮らし、意識を変えていくかを考える絶好の材料となります。一種の社会との対話を実現しています。

 

光と闇の両面を描くことがなぜ、社会との対話に繋がるのでしょうか?
分かりやすい例として、ソードアートオンラインが手本となるでしょう。
この作品はバーチャルリアリティー(VR)やブレインマシーンインターフェース(BMI)の光と闇を描いていました。

 

技術の課題も含めて広く認知して貰い、現状またはこれからの課題を共有する。
それによって、その分野へ進むプロフェッショナルの人材確保に長期的に貢献する。
そんな意義があるように感じます。

 

1つ確実に言えることとしては、新しい技術が生まれると同時に、新しい法律や制度までもが次々に必要になってくる、ということです。
これは純肉技術にも全く同じことが起き得ます。
こうした創作物少しでも多くの学生や研究者に認知され、純肉技術に従事する様々な専門家が生まれることを期待します。
サイエンスのみならず、法律や畜産専門の方も含めてです。

 

自分自身も純肉社会実装の一端を担う人間として、
「創作物による科学コミュニケーション」は是非とも押さえたいところであります。

 

これからも似たようなネタを見つけたら記事を書いてみようと思います。

 

また今度!!