行ったことがない下北沢に行きたくなって下北沢に向けてサイクリングをしていた。
走っている時に制作相方のヨシタケ・ヒサシから連絡が入る。
この映画見に行かないか、と。
幸いなことに重要な予定があるわけでもなく、原宿の近くまで来ていたのもあって合流することにした。
結局だいぶ走ったのだが。
さて、先日見たこの映画は、単なる映画というよりは現代アート作品に近いものだった。
会場は一切の光が無い暗闇
そこに立体音響を使って四方八方から様々な環境音が流れる。
ナレーションは無く、本当に音しか無い。
だから明確に登場人物が誰とか、どういうシチュエーションだとか、何が主題なのかは提示されない。
途中10分くらい寝落ちしていたけど、70分間作品を"聞き続けた"。
ここからは作品を体験しての感想なんだけど、この作品は人間の感覚を研ぎ澄ませてくれるのかもしれない。
「視覚が情報ソースの8割」だとか話がある通り、通常の映画は視覚的情報がスクリーンに映し出されることによってストーリー展開、登場人物やその関係性を認識することになる。
ここで重要なポイントは、通常の視覚的映画の場合は微妙な差があれど観客は皆似たような作品への解釈を得ることだろう。
少なくとも、ベタなラブストーリーと分かる作品を鑑賞してホラー映画だと認識する人はいないだろう。
しかし本作品は流れてくる音の多くが環境音で構成されており、物語のジャンルすら提示してくれない。
普通のホラー映画っぽく、マイナーコードを多用した不安げな音楽さえあれば解釈が容易なのだが、それが無い。
言い換えれば、視覚的情報がない分、どのようなストーリーと感じるかは観客のこれまでのバックグラウンド(観てきたもの、感じたこと、作ったもの)に強く補完される。
そういえば似たようなことを思い出した。
平沢進の生放送企画 BSP でも似たような話があった。
彼が起用したドラマーを覆面状態でライブパフォーマンスさせた例があった。
覆面にすることで、そこには観客の味方がそのまま投影されることになるとか。
1:01:00 ~で解説
今回の作品は理解するには、自分の経験や言語力が低すぎるのが残念だが、
それ以上に、人間が情報量を遮断されたとき、
自己の内に含まれたものが解釈に投影されやすいという普遍的な意味を気づかせてくれるのかもしれない。