培養X年目の与太話

培養、与太話

細胞培養と与太話で生きてます。

生体組織工学のモヤモヤを聞いて欲しい ~肉づくりの観点から~

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既存の組織工学に対してモヤモヤしてきた。と言えば唐突だが、実際そうだ。

「培養皿の中で組織を作る」研究はかれこれ20年以上前から行われている。

iPS細胞から連想されるように、世界的にも再生医療の流行り(?)の影響を受け、

研究者はこの10年間で急激に増えたといって良いはずだ。

 

 

加えて、最近だと培養肉生産を含む細胞農業の認知によって更に研究領域が広がりつつある。

 

細胞農業

ja.wikipedia.org

 

 

だがその一方で、この研究分野そのものについてモヤモヤが払拭できずにいる。

 

 

そもそも、既存の研究方針は正しいのか?

自分も大学院では同様に組織工学の分野にいて、骨格筋組織の形成について研究・実験を行う日々を過ごしていた。

ラボを卒業してから1年以上が経ち、筋肉からは一旦手を離したものの、今でも細胞農業の分野で似たような研究開発をしている。

 最近の研究動向が気になってGoogle Scholarで検索してみた。 

2019年以降でも多くの論文が発表されており、盛り上がっているように見える。

 

(組織工学 解説)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsao1972/35/3/35_3_378/_pdf

 

(論文例)

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/adhm.201801168

Frontiers | Scalable 3D Printed Molds for Human Tissue Engineered Skeletal Muscle | Bioengineering and Biotechnology

https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/jbm.a.36535

 

骨格筋を創るにしても様々なメソッドが提案されているが、大まかには 

  • 足場素材(ファイバー、ゲル、高分子スポンジ)に細胞を巻いて培養する系
  • 3Dプリンタで細胞の入ったインクを出力して形成する系

ざっくり言えば、細胞が接着する材料に対し、細胞を一緒にまくか、後からまくかの違いでしかない。

そして、この技術開発の方針は今のところ何も変わっている様子はない。

 

しかし、大学院2年目にして一つの疑問に辿り着いた。

「そもそも、このまま研究され続けたとして本当に筋肉はできるのか?」と。

 

基本的に学会に行っても似たような技術の発表が多い。

勿論、その時は自分も然り。

どこか分野全体が足踏みしているように思えて仕方が無い。

そもそも、多くの研究者にとって、社会実装までを見据えた人は少ないと言わざる得ない。

確かに筋肉らしい構造体はできても、メチャ金のかかる技術だったり、そもそも医療に使えるような方法ではなかったりと、問題は多い。

「研究のための研究」その言葉が頭をよぎった。

 

自分の場合、非常に細い(直径1マイクロ程度)ファイバー材料を細胞足場に使った検討を行っていたが、ある程度のところまでは筋肉組織もできなくはない。

しかし、実際の筋肉組織には構造も機能も程遠い。

 

もし今の研究動向のまま組織ができるのであれば、とうの昔に出来ているのではないか?

世の中には自分より凄い研究者が山ほどいるのだから、足場材料という方針が正しければ、とっくに誰かがブレークスルーを起こすはずだ。

しかし、10年経とうとそれが起きない意味は・・・・

 

別の方向からのブレークスルーが必要、そう思うようになった。

 

 

そもそも足場が正しくないのではないか?という疑念

細胞足場というツールに囚われつつある研究者が、自分を含め多過ぎるのではないか?

そう思うようになった。

 

動物が受精卵から発生して生体が形成されていく過程において、足場が先にある状態は少ないと考えるのが普通だ。

どちらかと細胞が出す物質による足場形成と細胞の増殖・遊走が同時進行で起きていくと考える。

「組み上げる」というよりも、「生える」という言葉の方が正しい。

 

こういったことを踏まえると、ただ筋肉組織を創ることを目的にするのであれば、足場の素材(高分子の種類や分子量)や作製条件について右往左往するよりも、生体内と試験管内の本質的なギャップに迫った方が有意義なのではないか?とすら思うようになった。

 

しかし、このギャップというものをどのように定義するか?は非常に難しい課題だ。

 

しかし、この問いに向き合わないと組織工学の実装は絶望的だと思う。

今後、自分が10年以上向き合う課題だと思う。

C96も申し込みました。

またまた申し込みました。 

次回に向けて鋭意準備中です。

どうぞご期待下さい。

 

 

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今年の創作活動のテーマは「葛藤と鬱憤晴らし」かもしれない

創作活動の目的は何か?と聞かれて困ることがある。

 

「単に表現したいことがあったから」とクリエイター志望者のようなことをいうことも出来るが、本当は違う。

 

どちらかと言えば、

「自分の揺るがない世界が欲しかったから」

というのが現時点で最も正確な回答だと思う。

 

唐突だが、日々仕事や生活をしていると、能力面やバックグラウンドでの周囲とのギャップに悩まされることがある。

どこぞの若者に媚びた歌のように「自分らしく生きればいい」という言葉では片付かない。

 

そんな中で改めて挑戦することにしたのが、自分の個人サークルでの活動だった。

 

sciencecontents.hatenablog.com

 

創作活動をしている間は、良い意味で自分は孤独でいられる。

その孤独の中から出てきた世界は、何かしらのインスピレーションを受けているとはいえど、自分からしか出てこない話だ。

例え能力面で圧倒されようが、自分の世界が揺るがない限り元気に生きていくことはできる。

活動が進むにつれ少しづつ自身が湧いてくる。

より具体的な活動に舵を切ろうと思うようになった。

 

だけど今はまだ、この活動を将来の仕事にしようなどとは思っていない。

専門はバイオ(組織工学)だが、表現の世界はとてつもなく広いことを最近実感している。

仕事の関係でクリエイターとして働く人とも付き合いがある。

彼らの表現やバックグラウンドは輝かしさがあり、今の自分と比べると圧倒的に優れたアウトプットを可能にする(当たり前だが)。

そんな中で働いたら、余計に周囲とのギャップに苦しむことになるだろう。

 

だからこそ、今は創作活動という距離感で自分のテーマである「細胞培養」と向き合うのが良いのかもしれない。

 

今年のテーマは「葛藤と鬱憤晴らし」かもしれない。

日々のモヤモヤ、不満から生まれた想いや世界観を創作活動という形態で発信し、共感してくれる人を探したい。

 

そして叶うならば、共に表現する仲間を見つけていきたい。

型が必要な理由は何よりも・・

最近、何をするにも型が必要だと感じた。

 

これは前回の話にも通ずるところがある。

 

sciencecontents.hatenablog.com

 

 

 例えば、ゼロから何かを創ろうとする。

時間をかけても中々思った風には進まない。

なぜなら型が無いから。

何も無い状態から作ろうとすると、どこかで変なプレッシャーを感じ始める。

こうしたケースは日々の仕事の資料をつくる場合によくみられる。

 

ここ最近、「変な背伸びは止そう」という心構えができ始めた。

というのも型が無いと何もアウトプットできない自分がいたからだ。

 

もっといえば、型が無い状態で仕事をすると時間が掛かり過ぎて睡眠時間、創作活動、家事に割く時間が極端に減っていく。

 

この状態は何としても改善しなくてはならない。

そう感じている。

【続】等身大で描いた創作が一番しっくりくるし面白いという話

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前回の記事の続きです

 

(前回記事はこちら) 

sciencecontents.hatenablog.com

 

 

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培養器を買ってからというもの、仕事から帰宅してから培養器の中を眺めるのが日課になっていった。

何か変化をもたらすような驚きがあるのではと期待しながら。

 

観察を始めた初日、まだ培養液の中に変化は見られない。

時折出る泡を眺めながら時間が過ぎていく。

 

観察を始めて3日目

容器の中で何か小さい粒のようなものが形成され始めた。

 

1週間目

肉眼でも簡単に確認できるほどに育ったその粒子が複数できている。

 

2週間目

粒子は2 cm程の大きさに成長している。

少しずつではあれど、確実に変化をしていく粒子に対し、ある種の愛着を抱くようになっていく。

 

この時期から、男のつぶやき癖が始まった。

「今日も浮いてるなぁ」「お前は何になるんだぁ?」

など他人からすればどうでも良いことを培養器に向かって呟くようになる。

 

1か月後

粒子は5cm程度の大きさに成長してきた。

最終的に何ができあがるのかは、まだ分からない。

 

そして培養器の中の球体から突起が出始めるころ、思った。

「コイツは毎日変化しているのに、俺は全く変わらないよなぁ」と。

培養器が来てから、生活には何となくの変化が現れた。

だが、それを眺める自分には、本質的に何の変化も無い。

 

 

そしてある日、主人公は自身の内面に変化を求め始める。

本当の意味で毎日を変えていくために。

 

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以上が思いついたアイディアだった。

このような形になったのは、その時の自分をストーリーに投影させたためだ。

等身大の自分で描けた、とも言える。

丁度この時、自分は色々と悩んでいた時期だった。

自分が生み出せるものの限界、能力の限界など挙げてみればきりがない。

しかし、その一方でこれは伸びしろがあることも意味する。

不安の中に微かにある期待を込めた作品になった。

 

もう1つ思うところがある。

いつになるかは分からないが、培養肉が家庭に実装されるタイミングは必ず来る。

しかしそれでも、人間の本質的な部分「何に悩むで生きるか?」は

数十年経っても、どんなにテクノロジーが進化しても変わらないのでは?という疑問を含ませている。

スマホを含めた情報技術により、確かに世界はアップデートされた。

それでも人間の悩みが解決されたかと言えば、全くの間違いだ。

むしろ情報に曝されることによる悩みの方が増してきている気がする。

 

これから10年以上、自分は培養肉で世界を変えるというビジョンを持ちつつも、それがどのように人々の悩みを解決するのか?さらには、どんな個人のストーリーを描いていけるのか?を問い続けたいと思う。

 

これが自分の中で一番しっくりくる創作活動だ